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過日の夏

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『過日の夏』
 
 良夫は夏だということをすっかり忘れていた。その日は朝から暑かった。見上げれば、流れる雲のない青空から強くて射るような日が降り注いでいる。
 本棚を整理していたら、一枚の写真を見つけた。美しい女性が映っている。遠い昔の写真だ。今日と同じように日が容赦なく降り注いでいたあの夏。ゆりと出会い、激しく愛した。異性とはいかなるものを教えてくれた。

 あの日の昼下がりも暑かった。
 ゆりと二人で町中を歩いた。微かに風は吹いたが、燦々と降り注ぐ日の下では、何の気休めにならなかった。
 黒っぽいワンピースをまとったゆりは涼しい顔をして良夫の後についてきた。言葉をあまり交わさずただ涼を求めて歩いた。良夫は時々振り返った。視線が合うとゆりは微かに笑みを浮かべた。ゆりの笑みは一滴の雫のような清々しさにも等しく、良夫にしばし暑さを忘れてくれた。
並木の入り口に喫茶店があり入った。
 店内は人影がまばらで、エアコンが効いて外の暑さが嘘のように涼しかった。
 並木の見える窓側に座った。
 良夫はゆりを時々見た。ゆりは独りでいるように、遠くを見ていた。
「さっきから、何を見ている?」
「何って?」
「遠くの方ばかり見ているじゃないか」
すると、ゆり「何も見ていないの」と少女のように笑みを浮かべる。
「何も?」
「そう」
 そう言うと、また微笑む。
「変?」
「少し」
「ごめんなさい。考え事をしていたの」とまるで悪いことして、咎められて素直に謝る子供のように謝った。
「別に誤ることなんかないよ。でも知りたいな。どんなこと? 教えてよ」
 視線があった。良夫は口付けようとした。
「嫌よ」と少女の顔を見せた。
 そんな彼女がとても愛おしいと思った。

 二人は何気なく知り合った。そして良夫は電話をするようになった。特に夜の孤独を紛らわせるためにみんなが寝静まった頃に電話をした。ゆりもまた誰にも理解されていないという孤独を感じていたので、二人の電話は長時間となった。波長が合ったとかがあっていたのであろう、いろんなことを話した。たとえば今日何を食べたか。どんなことがあったか。あるいた新聞に書いてあったこと。歴史のこと。経済のこと。
良夫は自分を博学で知的な人間と自負していたが、ゆりの知識の豊富さに舌を巻いた。同時にゆりにいろんな顔があることを良夫も知った。優しい慈母のような顔、捉えどころのないどこか夢見るような顔、知的な顔、そして、女性という性を持った顔。それがゆりの中で何ら矛盾することなく同居していた。ゆりのいろんな顔は、あたかも薔薇の花弁ように幾重にも重なって、ゆりという存在をつくっているように良夫には思われた。花びらをめくるたび新しいゆりの顔があらわれてくる。それがたまらない魅力として良夫をひきつけた。
いつしか昼夜を問わず、良夫はゆりのことを考えるようになった。そして、考えると、いてもたってもいられなり、会いたい思いが募っていった。が、二人は、すぐには会えない遠く離れたところに暮らしていた。だから夜になるのが待ち遠しかった。
 電話は不思議である。間近で話しているようで相手の顔が見えない。その分、想像力を自在に膨らむ。そして、夜は、男も女も昼間とは違った顔をみせる。
 午前零時。過去と未来が出会う不思議な時。彼はゆりに電話する。ベルが鳴る。なかなかゆりは出ない。苛立って電話を切ろうと思う。すると、ゆりが出る。不思議な夜の時間の始まりだ。時間はあっという間に過ぎていく。一時間、二時間。やがてゆりは眠たそうな小さい声をする。
「ゆり、君に口付けをするよ。聞いている?」
「うん」
「たまらなく君のことが好きなんだ。君は?」
「わたしも」
ゆりは小声だ。
「君の花びらのような唇に口付けたい」
「君は今、何を着ている」
「下着だけよ」
「どんな色? ピンク色」
「どうして分かるの? ブラジャーはしている?」
「していないわ」
「君の胸に口付けたい」
「だめよ」と甘えた声で言う。ゆりが意識していたかどうかは、定かではない。が、良夫蝶が花の甘い香りに誘われようにゆりの甘い声に導かれ官能的な仮想空間の中に入っていった。顔が見えない分、ゆりも恥じらいながらも大胆になった。喘ぎ声を出したりして、良夫を楽しませた。
が、仮想空間がどんなに甘くとも所詮、現実ではない。何かがかけていることに気づいた。そのことに気づいた良夫はゆりという存在をその手で、その指で確かめたという欲望に駆られた。そして、ある日、こう切り出した。
「ねえ、会いたいんだ」
 はじめはいろいろと理由をつけて拒絶した。が、良夫の熱意に負けて、会う約束をした。夜、ホテルで待ち合わせをした。ゆりは三十分遅れて来た。黒っぽい紗のような薄いワンピースを纏って。ゆりは小さな声で、「待った?」
 良夫はいいや、という意味の首を振った。
ゆりはソファにハンドバックを置いた。そして窓辺によって、窓硝子に頬を寄せ、月夜を眺めた。
「きれいね」
 その日は見事な満月であった。金色に月が中空に輝いていた。
 後ろから見るゆりの臀部は、そのぴったりとまとわりついたワンピースによってはっきりと分かった。それは見るからに、欲望をそそる美しい弓なりの形であった。

 ゆりに出会うまで良夫はずっと渇いていた。二十の頃からか。何かが欠落していると思った。本来、自分には無くてはならない何か。が、それが何なのか、彼自身、分からなかった。そのせいか、彼はいつも苛立ち、その怒りを周囲の人間にぶつけ、度々、衝突していた。衝突を繰り返す度に、彼は一層、孤独になった。自分の居場所が狭まっていくようなそんな息苦しさを覚えるようになった。どこか遠くへ行こう。いつしかそう心に決めていた。遠くへ行けば、何かが変わる。そして、自分も変わる。自分の持つ知性に相応しい活躍の場があり、毎日楽しくてたまらないはずだ。そんな夢を描いていた。しかし、ゆりと出会って分かった。他愛のない夢よりももっと素晴らしいものがあると。
作品名:過日の夏 作家名:楡井英夫