据え膳、食わぬは
春の夜のことである。
A町にあるバーに寄った。時間が早いせいもあって、女もいない。ただ鬼瓦のようなバーテンダーがカウンターに立っているだけ。鬼瓦は店長と呼ばれている。彼のことは五年前から知っているが、だからとって親しい間柄でもない。
ウィスキーを一杯飲んだ後、鬼瓦にも酒を進めた。
「じゃ、ビールをいただきます」と言いながら、グラスにビールを注ぐ、彼を眺めなら、
「今日、ママは休みかい?」と聞くと、
「いえ、用があって、少し遅くなると言っていました」
「ママは男とデートかい?」
彼は微笑んだ。
「他の女の子は?」
「今日は三人出る予定ですが。みな予定があって遅いです」
何度か、ビールを勧めた。彼はさほど酒に強いわけではないらしく、顔が真っ赤になり、まるで赤い鬼瓦になっている。ふと、彼の顔に興味を覚え、
「厳つい顔しているな。まるで鬼瓦みたいだ。生まれたときから、そんな顔をしているのか?」
彼は微笑んだ。まるではにかんだ子供みたいな微笑だ。
「残念ながら、違いますよ。人間なんて切羽詰ると、困った顔が自然と出るでしょ。それがずっと続いてきたせいです。そのまま張り付いてしまいました。それが今の顔ですよ」と笑った。
「きっと、すごい人生を歩んできたんだな」
「私の人生に興味がありますか?」
うなずくと、鬼瓦は昔話を始めた。
今からさかのぼること二十年前、鬼瓦は美しい妻を娶った。それから雑貨を扱う店を開き、家を建てた。何もかも順調に行き、結婚して七年目には娘ができた。その頃か幸せの絶頂期だった。近くに同業の大型店ができたのが転落劇の始まりだった。その店は価格も安く品質も良いということであっという間に顧客を取られてしまった。店を改装して客を呼び戻そうとしたが、無駄な努力だった。やけになり、ギャンブルに手を出してしまった。のめり込むのに時間がかからなかった。最初はうまく勝ったけしたこともあったが、負けが続いて、借金をするようにまでなってしまった。アッという間に借金は雪だるまのように増えた。しまいに店をたたみ、家を売った。呆れた妻は子を連れて出て行った。子供は母親に手を引かれながら、「お父さん、お父さん」と何度も呼んだ。ただ見送るしかなかった。借金とりに追われて、にっちもさっちもいかなくなったとき、親に泣きついた。親は二千万近い借金を肩代わりする代わりに、縁を切ると言われた。それから、彼は故郷を捨てた。あてもなく、さまよった。死ぬ場所を探した。だが、簡単に死ぬことができず、いつしかN市に来ていた。N市は幼い頃、母親に連れてこられた街である。妙な懐かしさがあって、住み着いた。
「すごい人生だな。平凡な人生を送ってきた俺にはよく理解できない。でも、どこまで本当な話だ?」
「さあ、ほとんどがフィクションですよ」と笑った。
「だろうな。でも、即興にしては面白い。作家になれるかもしれない」
「世の中はそんなに甘くはないでしょう」
顔を見合わせて大笑いした。ふと、彼が言っているのは真実であるような気がした。
「どうして、この店に勤めるようになった」
「雨の日でしたか、バーテンダーの募集があって面接を受けました。美しい女神のようなママが面接してくれました。『働かせてくれ』と頼んだら、『 いいわよ』と言われて働き始めました。もう五年経ちますね」
ドアが開いた。ママが入って来た。一人だった。いつものように和服を着ている。惚れ惚れするようないい女だ。
「久しぶりね、ご一緒しても、いいかしら?」と聞いたので、
「いいよ」と答えると隣に座った。
「どんな話をしていたの」
「店長の過去を聞いていた」
「あら、私には、聞かせてくれたことがなかったのに。面白かった?」
「つまらない話ですよ。単なる戯言です。青木さん、明日の朝には忘れてください」
「明日の朝にならなくとも、今夜寝るときには何もかも忘れているよ」
鬼瓦は照れながら笑った。
「今日は週の初めだから、客は少ないかも。それに雨も降ってきたし。街は死んだように静まり返っている」
「じゃ、今夜はママと二人とことん飲むか」
「いいわよ、酔ったら介抱してくださいね」
「いいよ」
ママも酔ってきたとき聞いた。
「店長はいい男だな。鬼瓦みたいだが。渋い感じがする。恰幅もいい。きっとセックスは強いはずだ。抱かれたいと思ったことはないかい?」
「あるわよ。一度だけ。遠い昔のことだけど。彼の前で全裸になったことがあった」
「それはすごいな。惚れたのか?」
「分からない」
「で、どうなった?」
「どうにもならない。ただ、何も見えなかったように通り過ぎて行った」
「据え膳、食わぬは男の恥と言う」
「でも、後で思ったけど、あの時、何もなかったから、今も続いている。今は店の経理も任せている。ああいう男が良いわよ」
その夜、ママのマンションに行った。
ママに迫り、上半身を裸にした。目を凝らすと、ママの乳房にトカゲの入れ墨があった。
見た瞬間、いっぺんに冷めてしまった。
「ママ、悪いけど、俺も男の恥だ。帰るよ」
「残念ね」
「今度、ママの身の上話が聞きたいな」
「高いわよ」
「そうだろうね」と言って笑いながらママの部屋を出た。