十二月の蝶
その行為は、雑踏の中で誰かの声を聞き分けるのに似ていた。しかしそれも、おそらく彼が聴覚のように感じているだけで、実際に肉体の耳が捉えているわけではないのだろうと思う。
りぃん。
雨音に交じって、鈴を振るような音が聞こえた。
庭だ。裏庭の方。
雨戸を完全に開け、掃出し窓も開ける。十二月の風が吹き込んでくるが、気に留めなかった。
闇に沈む冬枯れの庭の一角に、異変が起きていた。
ぼんやりと光る小さななにか。
風が吹くたびにふわふわと頼りなく揺れるが、枯葉のようにただ飛ばされているだけでもない。よろめきながらも、それ自体の意思のようなものが感じられた。
どこかで見たような軌跡を描いて飛ぶ、それは。
「……蝶」
雨塚はつぶやいた。
羽根全体から燐光を発し、後ろに微かな光の粉を散らしながら、真っ暗な冬枯れの庭に、蝶が飛んでいるのだった。種類はよくわからないが、揚羽蝶のように羽根の端が尖っている。
また空気が鳴った。りぃん、と。
暗くてサンダルが見つからなかったので、雨塚は裸足のまま庭に降りた。
足の裏に土と草の感触。ジャージ姿ではさすがに寒さを感じたが、ひきつけられるように蝶のもとへ向かう。
ためらいはなかった。そうすべきだという確信めいたものがあった。
蝶は仄かに光りながら、表の境内へ舞い出て行く。
雨塚はそれを追った。
表へ出ると、下弦の月が空にかかっているのが見えた。月を背にして、社殿の切妻屋根がぼんやり浮かび上がっている。賽銭箱はただの黒い影となり、拝殿の鈴が月光を反射して鈍く光っていた。
淡く光る蝶は、社殿の前にとどまり、くるくると羽根を翻していた。
素足で砂利を踏みしめ、雨塚はゆっくり蝶に近づいた。蝶に逃げる様子はない。
「――花梨ちゃん?」
雨塚は蝶に呼びかけた。燐光が強くなった気がした。
そっと両手を伸ばす。怖がらせないように、そっと。
ふわふわ舞っていた蝶は、明滅しながら雨塚の両手の間におさまり、そこで羽ばたきながら空中に静止した。
「沖津鏡、辺津鏡、八握剣、生玉、死返玉(おきつかがみ、へつかがみ、やつかのつるぎ、いくたま、まかるがえしのたま)……」
柔らかく掌に包み込む。
蝶の羽根から零れる光はゆっくり明滅を繰り返し、まるで呼吸しているようだ。
「……足玉、道返玉、蛇比礼、蜂比礼、品物之比礼(たるたま、ちがえしのたま、おろちのひれ、はちのひれ、くさぐさもののひれ)」
雨塚の唇から、囁くように祝詞が紡がれる。
「一二三四五六七八九十、布留部、由良由良止、布留部(ひとふたみよいつむななやここのたり、ふるべ、ゆらゆらと、ふるべ)」
唱え終わると同時。
最後にひときわ強く光って、蝶は消えた。
雨塚は蝶を捕えた手をしばらく見つめていたが、やがてふっと息をついた。
半分雲に覆われた空には、下弦の月が浮かんでいる。
雨音はもう、聞こえなかった。
古来より洋の東西を問わず、蝶は霊魂の象徴、あるいはその運び手とみなされる。
また、幼い子供の霊魂は、ささいなきっかけで容易に肉体を抜け出して、どこかへ漂っていってしまうことがあるという。「七つまでは神のうち」という言葉は、幼いころは霊的なものとの親和性が高く、不思議な体験をしやすいことを意味する場合もある。
「ふわぁ……」
筆でこすったような薄青の冬空を背に、雨塚燐太郎は大欠伸をした。
現在時刻は午前九時。身を切るような早朝のうちはよかったが、太陽が大気を温め始める頃合いになり、深刻な眠気を感じ始めていた。
今なら立ったまま眠れる気がする。握った箒に寄りかかって寝てしまいたい。むしろ眠い。ただただ眠い。
本日の雨塚は白の衣に浅葱袴姿である。日曜日、それも年の瀬が近いので、これから参拝客が増える見込みだ。人目に触れる機会が多いのだから、それらしい格好のほうが心証はいい。
しかし服装が相応でも、当人が明らかに寝不足の顔をしていては形無しであった。普段から眠そうに見える目が、長い前髪の下で半分閉じかかっている。
こうも眠いのは、ひとえに変な時間に起こされたからだ。
雨塚は、昨夜の出来事を思い出す。
深夜に訪れた、光る蝶のことを。
(眠ってる間に頭でも打ったか、夢路で霊的な何かと接触しちまったか)
何らかの理由で少女の魂が肉体を抜け出し、清浄な場であるこの神社に迷い込んだのだろうか。
すべては推測にすぎないのだが――
「またお節介しちまったなあ」
ひとりごちて頭を掻く。
昨日、真田には偉そうなことを抜かしたが、雨塚のやったことは祖母の妙子と同じだ。
むしろ、かつての妙子と違って頼まれてすらいない。雨塚が自分の意思で、好き好んで手出しをしたのだ。
――忘れるんじゃあないよ、燐太郎。
記憶の中で妙子の声が語る。
――あちら側のものに関わるのは、本来人の身に余ることなのよ。見ないですむならその方がいい。身の程をわきまえない行いは、必ず自分に返ってくるんだからね。
まるで、妙子自身の未来を予見していたかのような。
しかし。
(婆様、あなたはどうしたかったんですか)
関わるなと言いながら、雨塚に幾つかの特殊な知識と技を教えたのはどうしてか。
それらの技能に高い適正を見せた彼を、神社の後継にしたのは何故だったのか。
そして、もうひとつの疑問。
(……俺はいったい何がしたいんだ?)
昨夜ばかりではない。
自覚はしていた。妙なものを見聞きしてしまう体質、というだけならいい。しかし雨塚は時折ふらふらと、現と幻の境界を踏み越えてしまうのだ。
境界線が見えていてなお、向こう側へ歩み寄ってしまう。頭では、危険性を理解しているはずなのに。
人を助けたいからか。
助けて感謝されたいからか。
あるいは人ならぬものへの興味ゆえか。
それとも――?
箒で社殿前の落ち葉をかき集めながら難しい顔になりかけていた雨塚だが、ふとその表情が緩んだ。
正面の石段を登ってきた人影が目に入ったからだ。まだ若い夫婦と、その間に挟まれて手を片方ずつ父母に預けた、小さな女の子。
夫婦が石段を登り切る前に、女の子が両親の手を振りきって駈け出した。歓声を上げながら残りの石段を駆け上がり、参道を走ってくる。茶色がかったおかっぱの髪をなびかせて。
(ま、おいおい考えりゃあいいか)
雨塚は背筋を伸ばすと、外向きの柔和な笑みを浮かべた。
そうして、三人に向かって深々と一礼した。