沈降
ライトが闇の中を四方八方に交錯する。「ない、どこにもない。」絶望感が全身をおそった。追い打ちをかけるように彼の目の中におそろしい光景が飛び込んだ。そこは墓場だった。床には何十という白骨がごろごろと転がっていた。乗組員達の骨だった。ここはサメが入り込まなかったので遺骨が残っていたのだ。彼の精神は極限に達した。レギュレターを口からはずし、タンクも投げ捨て、上に向かってもがいた。息が苦しくなる。終わりだと観念した。意識が遠のき始めたその時、浮き球が水中から飛び出すように頭が水面に踊り出た。驚いたことに上には空間があった。「空気だ」彼はチアノーゼになりかけた顔面を再び紅潮させて、酸欠寸前の肺に思いっきり空気を送り込んだ。かび臭い異様な臭いが鼻腔を刺激した。そこはほんの小さな空間だった。彼は呼吸が落ち着くとともに少しずつ冷静さを取り戻した。頭部のランプの角度を変え、周囲を照らした。ちょうど艦の側壁部分だろうか。電線かなにかが這っている。いくつものパイプが左右を走っている。今までの艦内とは大きく様子が異なっていた。バルブやパイプがそこら中蛇のようにのたうち回っているのだ。「どこだ。ここは。駆逐艦の中のどのあたりなのか。」 彼はとにかく出口を探した。どこか脱出口はないか。彼は壁という壁、天井という天井を血眼になって調べた。なにもない。あるのは黒々とした分厚い隔壁と、その間を縫うパイプの群れだけだった。完全な閉鎖空間だった。万策尽きた。息苦しさの中で諦念ということばが浮かんだ。あのままおぼれた方が、よかったかもしれない。彼は足につけた小さなダイバーナイフを取り出した。おそらく自分の遺体は遅からず発見されるだろう。家族には本当に申し訳ないと思った。子供もまだ小さい。妻はこれからどうやって家族をささえていくのだろう。彼はドロで汚れた壁面を手でぬぐいながら、壁面に刻み込むメッセージを考えた。だが、いざ残そうとすると何も浮かばない。やはり生きたい。もう一度家族に会いたい。「チャンスは一度。バルブを回せ。赤いバルブ。生きろ、生きるんだ。」どこからともなく声が聞こえた。もう一度耳を澄ます。だがそれっきりだった。息が次第に苦しくなる。ついに酸素が切れ始めたようだ。その言葉は耳から聞こえるというよりも頭の中に響いたといったほうが正確だった。「赤いバルブ、赤いバルブとはなんだ。」その時、最後のメッセージを刻もうと汚れを拭ったすぐ目の前の壁に、なにやら文字らしいものがあることに気づいた。こんな状況下でなぜそれを読もうとしたのか自分でも不思議だった。ただ、さっき聞こえてきた声の答えがそこにあるような気がした。古い字体だった。真鍮のパネルにしっかりと彫り込まれている。「緊急浮上手順、メインタンクブローは赤い排水バルブを右に一杯に回せ 昭和19年8月1日進水 日本帝国海軍呉工廠 乙式特殊潜航艇」ここに至ってすべての謎が解けた。ここは潜水艦の中だ。しかも旧日本海軍の特殊潜航艇だ。ちょうど米軍の駆逐艦の横腹部分にめり込むようにつきささっている形だ。ここに入ってくる前に駆逐艦が鎮定している横の海底の砂が妙な形で盛り上がっていた。あの下には潜航艇が埋没していたわけだ。今まさにその潜航艇の艦首部分にいるわけだ。ちょうど損傷した外壁から中に偶然に入り込んだ形になっているのだ。彼は急いでその下に書かれてある艦内図面に目を走らせバルブの位置を確認した。バルブはこの先10メートルの発令室の側面パネルにあった。長い間海中に沈んでいた潜水艇に圧搾空気が残っているのだろうか。だが今はかけるしかない。たどり着くだけで精一杯の距離だった。帰りのエアーはない。彼に戸惑いはなかった。誰かが背中を力強く押してくれているような気がした。大きく息を吸い込み、ダイブした。ボンベもレギュレターもない。ここから先もう空気を吸える場所どこにもない。彼はおもいきり足で壁面をけり、神に自らの身を預けた。ほんのわずかの時間が何時間ものように感じた。狭い艦内を通り抜け、前方に発令室らしきところが見えてきた。息苦しい。限界に近づきつつある。だがもう戻るだけの力はない。ライトをあらゆる方向に照らし、バルブをさがす。息がついに尽きかけてきた。視界が次第に狭まってくる。その時、白骨が目に飛び込んできた。それは腕から先しかない手だった。それはなにかをしっかりと握りしめている。バルブだった。赤いバルブだ。彼はその白骨の手の上から自分の手を重ね、全身の力を込めてバルブを回した。これが死の儀式だとしてもかまわないと思った。最初からバルブなど本当は当てにしていなかったのかもしれない。あのまま駆逐艦の乗員の白骨が散らばる空間で死ぬことが耐えられなかったのだ。せめて同胞の乗り込んだ艦艇の中で骨を埋めたかったのかもしれない。信じられないことが起こった。シューというはじけるような音ともに船内に無数の白い泡が充満し始めた。彼は必死でその泡を吸った。天井に空気の層がわずかにできた。60年以上も水没していた潜水艦の艦内の気蓄層に、まだ圧搾空気が残っていたのである。彼の頭が水面に出た。二度手空気が吸えるとは想像もしてなかった。みるみるうちにその空間は広がっていく。と同時に「ガラガラ、ギシギシ」という金属がこすれあう音がし始める。船体がゆっくりと浮き上がっている。艦内の海水が見る間に排水されていく。バルブをつかんでいた白骨の手を彼は無意識の
うちに握りしめていた。なぜか恐怖感はなかった。むしろ暖かさとぬくもりを感じた。ふとその白骨の手首になにかが巻かれているのに気づいた。数珠だった。水晶でできた数珠。水面が下がり、数珠が水面上に出たかと思うと、魔法が解けたかのように数珠ははじけ飛び、海中へと沈んでいった。同時に今までバルブを握りしめていた白骨の手も見えなくなった。あの手は潜航艇の乗員の手だったのだろう。特攻を志願した彼も最後の最後で緊急浮上を試みた。生きたかったのだ。艦内の水面が腰の高さまで下がったとき、ザブンという音とともに波の音が飛び込んできた。浮上したのだ。「ゴトン」という音ともに光が差し込んできた。すぐ目の前に一条の光が差し込んでいる。上をみると丸い穴がぽっかりとあき青空が見えた。艦内に漏れ出る圧搾空気の力でハッチが開いたのだ。無我夢中で外に這い出た。新鮮な空気が肺の中に流れ込む。彼は目にした。黒々とした円筒形の全長20メートルほどの潜航艇だった。間違いなく旧日本海軍の特殊潜航艇である。しかも特攻作戦用に造られたいわば人間魚雷といわれる部類のものだった。海上に浮上したのもつかの間だった。開いたハッチから艦内の空気が排出され、みるみる内に再び沈み始めた。彼は艦橋から海に飛び込んだ。ゆれる波間から彼はそれを見送った。静かにまた再び艦は海中へと没していった。水底へと沈んでいく途中、駆逐艦のマストに後部のスクリューが絡まった。絡まったというよりお互いが手をつないだかのようにも見えた。潜航艇と駆逐艦は互いにもつれあいながら深い海溝へと沈んでいった。