Ungebetenen Gast 招かれざる客
職の有る者も無い者も、その日すべき事に尽くした手が馴染みだす昼前。
人工と自然が雑じる森を、無骨な木の柵が申し訳なさげに、割って入り転々と並ぶ。
街道の終わり、蔓の塊に沈み掛けた標識を、その男は慌てて引っ張り出した。
背丈は5フィート少々、そつなく軽く纏められた赤毛。
安物だが機械的に仕立てられたスーツは、
これを着る男がこの地の生まれではない、と開かず口で語っている。
「ここが、アベントロート」
錬金術協会役員、ホルガー・アクス。
慣れた手付きで手綱を取り、彼を乗せた荷馬車は村の敷地に足を踏み入れた。
待ち望んでいた行商が来たと思ったのか、村人達が何人か
荷馬車に寄って来たが、行商でないと知るや否やまた元の場へ帰っていく。
「つれねえなあ」
ホルガーはおちゃらけて肩を竦める。 荷馬車を進める道すがら、
彼は何気なく果樹園に視線が向いた。
艶やかで豊かな赤がたわわに実っている。 それも全ての木にだ。
生まれ育ったトリコルヌのリンゴとは格が違う。 近づくと、愛しい酸味と甘みを含んだ香りが
彼の鼻をそっと撫でる。 狂愛の対象を一月はお預けになった口からは、
気付けば無思慮な涎が垂れ下がっていた。
このリンゴはヤバイ。 暫くは他のリンゴを受け付けられなくなるだろうが、
それもまた乙かも知れない。 早く、早く。 この無邪気な果実を受け入れたい。
特に実りの良い木を一本見つけると、ホルガーは涎を拭い
畑の中でリンゴを2つ抱えた中年の女性に商談を持ちかける。
アベントロートに来た目的などすでに頭の隅に追いやってしまっている。
彼はリンゴ狂いであった。
「ご婦人、この木のリンゴを全部譲ってくれ」
「あ、あら…、それは、かまいませんけれど」
「30個ぐらいは実ってるよな? 600コイルでどうかな」
婦人は何度か断ったが結局料金を受け取り、高揚して跳躍するも
全く目的の実に手が届いていない青年の、滑稽なリンゴ狩りを手伝う。
この広大なリンゴ畑は持ち主がおらず、アベントロートの住人はここから
必要な時に必要な分だけリンゴを持っていく。 料金は払わない。 払う相手が居ないからだ。
小男のリンゴ狩りを手伝っている彼女… アルノー夫人も、
おやつのパイの為に少しリンゴを分けて貰おうとした一人に過ぎない。
受け取った金額も彼女を困惑させた。
リンゴ1個あたり20コイルは色目を付けない、トリコルヌでも健全な優良店の相場だ。
―だがここは農村、アベントロートである。
品物の鮮度を保ったまま、荷馬車で調達する事が叶う距離に農場がない為に、
態々輸送船を使って食物を買い付ける…
それぐらいしか手立ての無いトリコルヌとは訳が違う。
辺りのアベントロートの品を取り揃える行商なら、1個10コイルでリンゴを売っている。
地元の者なら、自分達が育てた作物で物々交換を持ち掛ける方が買うより早いだろう。
随分良い手間賃をくれるお兄さんねえ。 夫人は受け取った金の意図を
取り違えたまま、手が届く実が一つも無い小柄な青年があまりにも哀れに見えたため、
代わりに望みのリンゴを全て収穫し、手心で荷馬車のカゴにそっと入れた。
小男を見ると、出来のいい深紅の果実を手に彼の目は子供のように輝いている。
もう二度と、ここまで手間をかけるリンゴ狩りなどしないと思っていたが、不思議な物だ。
「―あの子、アップルパイ… 好きだったわね」
リンゴ畑越しに、アルノー夫人は自身の住まいを窺う。
息子が村を飛び出すよりも遥か昔、名も知らぬ小柄な青年よりも小さかった頃。
瞼を閉じると、その風景はより鮮やかに浮かび上がった。
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人工と自然が雑じる森を、無骨な木の柵が申し訳なさげに、割って入り転々と並ぶ。
街道の終わり、蔓の塊に沈み掛けた標識を、その男は慌てて引っ張り出した。
背丈は5フィート少々、そつなく軽く纏められた赤毛。
安物だが機械的に仕立てられたスーツは、
これを着る男がこの地の生まれではない、と開かず口で語っている。
「ここが、アベントロート」
錬金術協会役員、ホルガー・アクス。
慣れた手付きで手綱を取り、彼を乗せた荷馬車は村の敷地に足を踏み入れた。
待ち望んでいた行商が来たと思ったのか、村人達が何人か
荷馬車に寄って来たが、行商でないと知るや否やまた元の場へ帰っていく。
「つれねえなあ」
ホルガーはおちゃらけて肩を竦める。 荷馬車を進める道すがら、
彼は何気なく果樹園に視線が向いた。
艶やかで豊かな赤がたわわに実っている。 それも全ての木にだ。
生まれ育ったトリコルヌのリンゴとは格が違う。 近づくと、愛しい酸味と甘みを含んだ香りが
彼の鼻をそっと撫でる。 狂愛の対象を一月はお預けになった口からは、
気付けば無思慮な涎が垂れ下がっていた。
このリンゴはヤバイ。 暫くは他のリンゴを受け付けられなくなるだろうが、
それもまた乙かも知れない。 早く、早く。 この無邪気な果実を受け入れたい。
特に実りの良い木を一本見つけると、ホルガーは涎を拭い
畑の中でリンゴを2つ抱えた中年の女性に商談を持ちかける。
アベントロートに来た目的などすでに頭の隅に追いやってしまっている。
彼はリンゴ狂いであった。
「ご婦人、この木のリンゴを全部譲ってくれ」
「あ、あら…、それは、かまいませんけれど」
「30個ぐらいは実ってるよな? 600コイルでどうかな」
婦人は何度か断ったが結局料金を受け取り、高揚して跳躍するも
全く目的の実に手が届いていない青年の、滑稽なリンゴ狩りを手伝う。
この広大なリンゴ畑は持ち主がおらず、アベントロートの住人はここから
必要な時に必要な分だけリンゴを持っていく。 料金は払わない。 払う相手が居ないからだ。
小男のリンゴ狩りを手伝っている彼女… アルノー夫人も、
おやつのパイの為に少しリンゴを分けて貰おうとした一人に過ぎない。
受け取った金額も彼女を困惑させた。
リンゴ1個あたり20コイルは色目を付けない、トリコルヌでも健全な優良店の相場だ。
―だがここは農村、アベントロートである。
品物の鮮度を保ったまま、荷馬車で調達する事が叶う距離に農場がない為に、
態々輸送船を使って食物を買い付ける…
それぐらいしか手立ての無いトリコルヌとは訳が違う。
辺りのアベントロートの品を取り揃える行商なら、1個10コイルでリンゴを売っている。
地元の者なら、自分達が育てた作物で物々交換を持ち掛ける方が買うより早いだろう。
随分良い手間賃をくれるお兄さんねえ。 夫人は受け取った金の意図を
取り違えたまま、手が届く実が一つも無い小柄な青年があまりにも哀れに見えたため、
代わりに望みのリンゴを全て収穫し、手心で荷馬車のカゴにそっと入れた。
小男を見ると、出来のいい深紅の果実を手に彼の目は子供のように輝いている。
もう二度と、ここまで手間をかけるリンゴ狩りなどしないと思っていたが、不思議な物だ。
「―あの子、アップルパイ… 好きだったわね」
リンゴ畑越しに、アルノー夫人は自身の住まいを窺う。
息子が村を飛び出すよりも遥か昔、名も知らぬ小柄な青年よりも小さかった頃。
瞼を閉じると、その風景はより鮮やかに浮かび上がった。
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作品名:Ungebetenen Gast 招かれざる客 作家名:靴ベラジカ