ファースト・ノート 9~10
「そうじゃないの。私の事情で行けなくなっただけだから」
どう問い詰めても歯に物の挟まった言い方しかしない。苛立ちを覚えて肩を強くつかむと、エレベーターホールから晃太郎が姿を現した。メールやデータのやりとりはしていたが、顔を合わせるのは一か月ぶりだった。
「体の具合はいいのか」
「うん。今日は調子いい方かな」
初音はすぐ前に立つ晃太郎に笑いかけて言った。
行方不明だった湊人を見つけた時、『ラウンド・ミッドナイト』には晃太郎もいたという。具合が悪くなったところに偶然通りかかったと聞いているが、一時期は距離をおいているように見えた二人の間に、以前よりも親密な雰囲気が漂っているように思えた。
さりげなく間に割りこもうとすると、晃太郎は要を見下ろすようにして言った。
「まだ聞いてないのか」
晃太郎は初音に視線をふった。彼女はブロックチェック柄のスキニーパンツを握ったまま、じっとうつむいている。
清拭を終えた看護師が扉を開けた。初音は逃げるように病室に入る。まだ晃太郎の視線を感じる。胸につまった息を吐き出して彼ににじりよると、突如、生体情報モニタが電子音を響かせ始めた。父の病室からだった。
父の枕元にあるナースコールを押すと同時に、看護師がかけこんできた。吸引器を口の中にさしこんだあと、何度も父の名前を呼ぶ。完全に呼吸が止まっているようだった。
医師と別の看護師も入ってきて処置を始める。三人の体が折り重なって何をしているのか見えない。医師が強く肩を叩きながら繰り返し名を呼んで、ふりむいた。
「声をかけてあげてください。まだ戻ってくるかもしれません」
父の横に立って「親父」と声を出したものの、それ以上何と言えばいいかわからなかった。首に直接チューブを挿入され、食事もとれなくなった体で、もっと生きてくれとは言えなかった。
初音が隣に来て父の手を握った。何度も「おじさん」と叫ぶ。空いている手で要の手を握りしめる。強い意志をこめた瞳が要を見た。
「私のおなかに要の赤ちゃんがいるの」
言葉を失っていると、彼女は手を握ったまま父の顔をのぞきこんだ。
「おじさん、おじいちゃんになるのよ。だからまだ死んじゃだめよ。戻ってきてよ。この前みたいに励ましてよ。私の本当のお父さんになってよ」
思考が追い付かず呆然と突っ立っていると、初音が腕を引いた。
我に返り、息をしていない父の肩を叩いた。
「親父、じいさんになるんだってよ。死ぬのは赤ん坊の顔を見てからにしろよ」
父の肩がわずかに動いたかと思うと、肺が大きく膨らんだ。生体情報モニタの数値が正常値に戻っていく。緊迫していた看護師たちの表情がやわらいでいく。
体を弛緩させて息を吐くと、父の目がうっすらと開いた。瞳の動きは止まったままだったが、両方の目じりから涙が伝っていった。
初めて見る父の涙だった。看護師がさしだしてくれたティッシュでぬぐってみたが、次々とあふれだして止まらなかった。
残りの処置があるからと言われて病室を出ると、晃太郎がコーデュロイパンツのポケットに両手を入れて立っていた。
「落ち着いたのか」
要がうなだれるようにうなずくと、晃太郎は「また来る」と言って立ち去ろうとした。
「おなかに子供がいること……知ってたんだな」
「おまえより経験があるから先に気づいただけだ」
「やっぱり……晃太郎には子供がいるのか」
彼はゆっくりふりむいた。広い背中にスティックケースを背負っている。
「二年前に死んだよ」
静まり返った廊下に低い声が響く。いつもの無愛想な顔に変化はなかった。初音にも驚いた様子はなく、動揺しているのは自分だけのようだった。
「だからって、おまえにどうこう言うつもりはない」
晃太郎は要に視線を注いだ。ギターを弾いて聴かせたとき垣間見せていた、深く暗い沼の淵に立たされたような瞳だった。本音は言っても肝心な心の動きはひた隠しにしてきた晃太郎の、生の感情に触れた気がした。
「おまえがいらないって言うんだったら、腹の子ごと俺がもらい受ける。おまえと初音の子だったら、さぞかし音楽センスのいい子が産まれるだろうよ」
そう言い残して階段を下りて行った。どこまでが本気なのかくみとることができず、要はその場から動けなかった。
隣に立つ初音がこめかみに手をやったかと思うと、膝から崩れ落ちた。貧血を起こしたらしい。あわてて体を支えて声をかける。
「なんで黙ってたんだよ」
「だって……子どもなんか出来たら要の邪魔になるだけだもの」
「俺に言わずに堕ろすつもりだったのか?」
初音は要の袖にしがみついて顔を上げた。
「違う。そんなの考えたことない。ここで産んで、一人で育てるつもりだった」
「なんだよそれ。俺が知らなくて、なんで晃太郎が知ってるんだよ。おかしいだろ。俺はいてもいなくても同じなのか」
胸の内にたまっていたざわつきを一気に吐き出すと、初音の肩が震えだした。目だけが不気味に光っている。手に力が入らないのか、彼女の体はずるずると滑り落ちていった。要は息を吐いて、しゃがんだまま背中をむけた。
「談話室に行こう。あそこなら横になれるから」
ためらっている彼女の腕を引いて首に巻きつけた。
背中におぶさると嗚咽が聞こえ始めた。
「俺……頼りないかもしれないけど、がんばっていい父親になるからさ。だからもう、何でも一人で抱え込むなよ」
初音が何か発声しようとしたが、言葉にならなかった。ずり落ちてくる彼女の体を背負い直してエレベーターのボタンを押す。さすがに片腕では支えきれず、彼女の足が床についた。先ほどよりはしっかりとした様子で立ち上がった。
「あの写真……まだ持ってる?」
なんのことなのか、要にはすぐ思い当った。初音が杞憂していることは、おそらく自分と同じだろうと思った。
「俺が……赤ん坊のときのやつ?」
「そう、あの女性……たぶん私のお母さんなの」
要は、うん、とうなずいた。初音は目を丸くして要をのぞきこんだ。
「気づいてたの?」
「親父の友人の、時任さんって人から聞いた。俺を生んだ母さんと仲がよかったから、俺を抱いてる写真があっても不思議じゃないって。それがどうかした?」
わざとはぐらかすように言った。到着したエレベーターの中に入ると、初音は意を決したように言った。
「私たち、同じ母親から生まれた姉と弟だって、考えたことある?」
要の腕をつかむ初音の手が震えている。要は自分の心に襲ってくる波をこらえながら口を開いた。
「少しは、あるよ。でも兄弟ってどこか似るものだろ? 湊人とはっちゃんが並んで立ってるのを見たとき、ああこの二人には血のつながりがあるんだってしみじみ思ったんだ。兄弟ってそういうもんだろ? 俺は、はっちゃんにそんなことを感じたことはみじんもないよ。はっちゃんだってそうだろ?」
彼女の細い両腕をつかんで早口に言った。エレベーターの扉が開いたので、初音の手を握って下りた。頭の片隅に浮かんだ疑念を早く取り去ってしまわないと、瞬く間にどす黒いもので思考が支配されそうだった。
作品名:ファースト・ノート 9~10 作家名:わたなべめぐみ