ファースト・ノート 9~10
「じいさんになるんだって親父に言ったとき、涙を流してた。親父の涙なんて初めて見たんだ。あれは後悔の涙じゃなくて、うれし涙だって、思いたいんだよ」
腕をのばし、初音の腹をなでながら言った。
「俺をこの子の父親にしてくれよ」
初音はくちびるを噛んで涙をこぼした。あふれた涙が顔中を覆い、長い髪が幾重にも張りついていた。髪をかき分けて額にキスをした。濡れた頬を手でぬぐっても、涙は止まらなかった。
父が赤ん坊の顔を見ることはないだろうし、この子も祖父に抱かれることはないだろう。消え去ろうとしている命のそばで、新しい命が育まれる。
初音がもたらした命の巡り合わせに、心の震えが止まらなかった。
***
道夫が紹介してくれた事務所から電話があった翌日の夜、父は息を引き取った。ただ深い眠りに落ちていくような、静かな死の訪れだった。
心拍数が落ち始めてから初音に連絡したが、間に合わなかった。最期の瞬間、あわただしく出入りする看護師たちをのぞけば、父と二人きりだった。
周囲の騒音は耳に入ってこず、病室は真夜中のようにしんとしていた。
驚いたことに、初音は母親を連れてきた。高校の教師らしく、白いシャツにストライプのパンツ姿だった。間違いなくあの写真の女性だった。
彼女の母は病室に入るなり、父と要の顔を見比べた。それからためらうことなく、父の手を取った。嗚咽をかみ殺しながら、「高村さん……きっと早苗が待ってるわ」とつぶやいた。
また初音が泣けばおなかの子によくないんじゃないかと思っていたが、誰よりも泣いていたのは初音の母だった。自分たちには計り知れない深い絆が、父との間にあったのかもしれないと感じさせる涙だった。
通夜の日は冷たい雨が降っていた。父は死後の段取りを全て決めていたらしく、うなずいているだけで事が進んでいった。要がしたことと言えば、父のダブルのスーツを着ようとしていたら初音に咎められて、新しいスーツを買いに行ったことくらいだ。
葬儀会場では喪服を着た初音と母親が待っていた。先週に比べるとずいぶんと顔色もよさそうだった。
手持ち無沙汰になってネクタイをいじっていると、時任と同窓生たちがやってきた。人付き合いの下手そうな父にこれほど仲間がいたのかと驚かされるほど受付に長蛇の列を作り、順に要に頭を下げた。
初老の男性たちの中には幼い頃の要を知っていて懐かしがる人もいた。彼らの話の中に生きる父の姿は今も変わらず輝いていた。
続いてやってきた晃太郎と道夫のうしろから、湊人が姿を現した。地毛の黒髪に制服姿の湊人は頬がひきしまり、初音から聞いていたよりもずっと凛々しい顔立ちになっていた。会うのは湊人が高村家を出て行って以来だ。要の顔を見るなり、音信不通にしていたことを何度も詫びた。
湊人の頭に手を乗せた。くしゃくしゃと黒髪をかきむしると、湊人はあわててセットし直した。晃太郎が「かっこつけやがって」と言うと、湊人は彼の足を蹴った。ふてくされて見上げる湊人の視線がずいぶんと高くなっているようだった。
読経が響く中、弔問客が次々に焼香をすませていく。家族葬用の室内におさまりきらない人たちが廊下に待機している。まだ大学生かと思われる男性から八十を過ぎた老人まで、幅広い年代の人々が要に頭を下げていく。中には涙を流して「高村先生」とつぶやいている者もいて、なぜ自分の涙腺は緩まないのかと考えてしまう。
最後の焼香に立ったのは四十代後半の女性だった。肩につくほどの黒髪が顔をかくしている。手を合わせて礼をしたあと、要を見た。
記憶のテープが急激に巻き戻っていく。若い頃の父の隣に立つ女性――研究室の扉が開き、セミロングの黒髪が風に揺れる。微笑んで要の名前を呼ぶ。小鼻の横にあるほくろが見える。さしだされた白い手を握る――
喪服を着た彼女の左手には指輪があった。手の甲の色はくすんで皺がよっていたが、スカートの前に添えられた小さい手はあの頃を思い出させた。
要は深く頭を下げた。彼女のうしろ姿が弔問客の中に消えていく。今すぐ後を追いたい衝動に駆られたが、読経が終わるまで何とか座布団の上に足を縛りつけていた。
通夜が終わって扉が全開されると、革靴を履くのもままならず芳名録に目を通した。最期の一行に「柳美穂」の名前があった。廊下に立っていた時任に声をかけ、すぐに戻ると言って葬儀会場を飛び出した。
外は闇に包まれていた。雨上がりの澄んだ空気があたりに満ちている。そばにある駐車場を見渡した後、大通りにむかって走り出した。
水たまりを踏むたび、新品の革靴とスーツの裾に泥が跳ねあがる。向かってくるバスのヘッドライトに目がくらむ。葬儀会場の名がついたバス停があることを思い出し、バスが走っていった方にむかってかけ出した。
淡く外灯のともるバス停に美穂が立っていた。塗装のはげ落ちた時刻表と腕時計を見比べている彼女の隣に、前方を走るバスがすべりこんでいく。
美穂の姿がバスの中に吸い込まれていく。
膨らんで爆発しそうな心臓を抱えながら、要は声を張り上げた。
「母さん!」
バスのステップに足をかけた美穂がふりむいた。彼女までの距離はまだ五十メートル以上ある。履きなれない革靴につま先が痛むのを感じながら必死でかけよって行った。
美穂が頭を下げた。車内から漏れ出す光が彼女の顔を照らすと、一粒の涙がゆっくりと頬を伝った。
腕をつかむ間もなく、彼女の姿はバスの中に消えて行った。痛む胸をおさえながら呼吸を整えようとしたが、嗚咽に似た声が湧きあがってきて抑えられなかった。
ウインカーのオレンジ色のランプが水たまりににじんであたりを照らし出す。美穂を乗せたバスが闇の中に消えていく。最後の涙を思い出しながら、来た道を戻っていった。
葬儀会場の入り口に初音が立っていた。
「会食の用意ができましたって係の人が……」
言い終わらないうちに、初音の体にしがみついた。頭は膨張して熱を持っていた。こめかみのあたりがじんじんと痛んだ。胸は両側から押しつぶされたように苦しく、横隔膜が痙攣してうまく呼吸ができなかった。鼻の頭がつんとして初音の肩に押しつけた。父が息を引き取った時も全く感じなかった涙の匂いが、鼻から喉に抜けていった。
生みの母が誰であっても、記憶に残る優しい母の姿は間違いなく柳美穂だった。
父と母が笑っている――その時間が戻ってくることは、決してない――
決壊し堰を失った目から次々と涙があふれだした。止めようとすると熱い液体が喉の奥に流れて咳きこんだ。どんなに強く初音にしがみついても嗚咽は止まらなかった。
初音は黙って背中をさすってくれた。
彼女の手が冷えはじめたことに気づいて体を離す。顔を見られまいとスーツのポケットを探ったが何も入っていなかった。
ジャケットの袖で顔をぬぐうと、初音は「明日も着なきゃいけないのよ」と怒りながらハンカチをさし出した。
思わず笑いがこぼれた。彼女の冷えた手を握って父の待つ式場に戻った。
作品名:ファースト・ノート 9~10 作家名:わたなべめぐみ