サーキュレイト〜二人の空気の中で〜第二十三話
雨の魔物は咆哮をあげると、そこから立ち上がった。
そして、先程は一瞬しか見えなかった雨の魔物の全身が、見えるようになる。
「ああ。あれは……」
まどかちゃんが呆然とつぶやく。
まどかちゃんに、「見ないほうがいい」と言える程度のインパクトではなかった。
オレ自身が、嫌なのに釘付けになってしまっている。
そいつは、まるで赤黒い肉の塊みたいだった。
もう完全に皮膚と一体化して、鎧のようになった血濡れのシャツ。
体中どこかしこも血の色一色の中、足の先だけが、白い光沢を放っている。
その巨大な体に見合った黒光りする剣と、血を滴らせた赤い大きな顎。
起き上がったそいつは、濁りきった目を、ゆっくりとこちらに向けた。
その口元が、獲物を見つけて喜んでいるかのように歪むのが分かる。
「気付かれた……か。何となく予感はしてたけど、こいつをどうにかしない限り、オレたちのゴールはないみたいだ」
「ゆ、雄太さん? 何を?」
まどかちゃんをその場に降ろし、振り向きもせずそのまま庇うようにして一歩踏み出すオレに、戸惑いと不安の混じった声がかかる。
オレはそれに答える前に、右手を上げて、結んでいた二本のミサンガを解いた。
ドクンッ!
その瞬間、全ての感覚が研ぎ澄まされ、心臓の音が耳のすぐ側で聴こえるのを感じた。
幸い、身体の負担はほとんどない。
こんな頻繁に『醒眉』まで解放したことは今までなかったが、意外といけるようだ。
そしてオレは、ほんの数秒だけ心構えをして、ようやくまどかちゃんのほうに振り向く。
実は、それが一番勇気のいる瞬間だったかもしれない。
「……あっ」
不安に覆われていた表情が、小さな驚きの表情に変化する。
オレの瞳の変化に気が付いたのだろう。
雨の魔物のインパクトほどではないが、これもちょっとした異常であることには変わりがない。
そういった心の中の葛藤を隠しながら、オレは笑って言った。
「見ての通り、オレにはあいつに立ち向かえそうな力がある。だから、オレが引き付けている間に、まどかちゃんは……うはっ?」
最後まで言い終える前に、オレはまどかちゃんに抱きつか……もとい、しがみつかれた。
それは、自分の物を離さない子供のような、そんな感覚。
さっきは急だったから気付かなかったけど、彼女の身体は恐ろしく軽く、柔らかかった。
天使の羽ってこんな感じかなって何となく考えてしまう。
「雄太さん、何するの?」
「言ったろ? あいつを倒さなきゃ、オレたちのゴールはないんだよ」
ぐずるように見上げてくるまどかちゃんに、オレは事実だけを述べる。
しかし、それがお気に召さなかったのか、いやいやをするようにまどかちゃんは言った。
「だって、危ないよ! あんなでっかい剣もってるし、雄太さんに何かあったら……わたしっ」
後半はもう言葉にはなってなくて。
それでも本気で心配してくれてるって言うのがよく分かった。
「大丈夫さ」
「で、でもっ」
まだ何か言いたがってるまどかちゃんを優しく放し、オレはその華奢な両肩に手を置いて。
「大丈夫、オレは負けない。まどかちゃんがいる限りは……ね」
潤んで光るその瞳を見つめ、オレができる改心の笑顔でそう言った。
「あ……う、うんっ」
すると、オレの気持ちと、意図が伝わったのか。
まどかちゃんは戸惑いと照れを含む微笑みで、そのまま少しだけ下がってくれる。
オレは、それを確認すると、そのままくるりと背を向けた。
ほっとしている自分がいる。
何より、オレの変化に変わらないでいてくれていたまどかちゃんが嬉しかった。
それだけで、何だか勇気が湧いてくる。
「君さえいればか。キライじゃないんだよな」
オレは小さな声で、そう呟いてみる。
輪永拳の心得第七曲目、『どんな勝負も勝ち続ける、君がいれば』だ。
まどかちゃんも、それを覚えてくれていたからこそ、この場をオレに任せてくれたんだろう。
そんなことを考え、今まさに戦いの地へ赴かんと。
オレは相手の前に立ったのだった……。
(第24話につづく)
作品名:サーキュレイト〜二人の空気の中で〜第二十三話 作家名:御幣川幣