花
「私は学者ではないから、真実は分からないか、美というのは生殖活動から生まれたものではないかと思っている。文明の進化がそれを曖昧にしたんだ。皮肉なことだが、そのことに気づいたのは生殖活動を止めてからだ」と笑みを浮かべた。
紗理奈は絶句した。さすがの彼女も言葉を失ったようだ。
「眼を閉じてごらん。そして薔薇を思い浮かべてみたまえ。……芳しい匂いを放す薔薇がある。厚みがあって軟らかな花弁は謎を秘めかように重なり合い、その奥には昆虫を虜にする蜜がある。実に不思議な重なりだ。女性のそれに似た密かな重なり、……それをわたしは描きたい。まるで手にあるかのように、そこにあるかのように描きたい。花を、密かな花を描きたいのだ」
「温室を見るか?」と村松は唐突に言った。
紗理奈はうなずいた。
温室は不思議な世界である。室内中、水蒸気に包まれていて、その水蒸気はまるで生きているかのように妖しく動く。その度に、様々な色が浮かび上っては消え、消えたかと思うとまた現れる。赤、白、ピンク、それに緑……実に様々だ。
「温室は薔薇だけだと思いましたけど、蘭もありますね」
「色々あるけどね」
紗理奈は花に触れて呟いた。「きれいですね。そして、とても軟らかいわ、それに……」
「それに……」と村松が耳元で囁くと、
紗理奈は「いい匂いがするわ」と溜息をついた。
X教授は、何となく場違いな所にいるような気がして独り黙って帰った。
その後、X教授に彼女がどうなったかと聞いたら、「 知るか!もっとも、雑誌社を辞めて、松村の家で見掛けたという噂は耳にした。それが真実なら、なんてこった。料理するつもりが、いつしか反対に料理されてしまったようだ。松村も単なる雄に過ぎなかったようだ。植物の花よりも美しい人間の花を手にするのがいいのだろう」と話と憮然とした。