私の読む「源氏物語」ー82-蜻蛉
「自分は自分の思うとおりに行動が出来なくて、女二宮を妻にして人目に立つ立場になり、帝よりも好遇して貰っている立場であるから、浮舟を宇治に置いて、久しく連絡もしないで、そのうちに京に迎え、自分の邸の近所で、浮舟が気にすることもない場所において、行く末長く過ごそうと、落ちついてゆっくり考えながら過ごしていたのだが、それを冷淡であると、自分の態度を見ていたということこそ、中途半端な気持で自分を頼らなければ何ともないのに、頼りにするからこそ、浮舟には自分と匂宮とを比較してみる気持ちが起こったのだと、私は思った。浮舟が死んだ今はこのような泣き言は言うまいと思うが、人が聞くならば、いかにも困るであろうが、誰も聞いていないから、お前には話そう。それは、匂宮の事さ、浮舟と何時から関係が出来たのか。その初めの頃、匂宮は女の心を惑わすことに長けた方で、浮舟はおそらく匂宮が常に側に居られなければ我慢が出来なかったことと思う。浮舟のことをもっと言いなさい。私にこの上真相を隠しなさんな」
聞いていて右近は、匂宮と浮舟の関係をしっかりと聞いていると、右近は浮舟が可哀想で、
「大変私の心に苦しんでいることをお聞きになりますね。右近も浮舟の側に何時も侍っていたわけではありませんのに。そんな関係があったかどうかは気がつきませんでした」
言いかねて、更に、
「自然と貴方も耳に入っておられることでしょう。中君の許に忍びで浮舟がかつて御移りなされた事を。しかし、浮舟の所に、思いがけない時に、匂宮が乱入されて、乳母や私などがひどい事を申しあげましたので、匂宮は御帰りなされてしまった。浮舟はそれ以来怖がられて、あの見苦しゅうござりました三条の隠れ家に移られたのであります。浮舟はその後匂宮に、人の噂にでも、居場所を聞かれまいと、思い、そのまま知られずになってしまったのに、匂宮はどうしてか浮舟が宇治にいることを聞いて、この二月頃から消息なされました。文は度々ありましたが、
浮舟は見ることをしませんでした。返事をしないのは、匂宮はなんと言っても親王であるから勿体なく、宜しくないのであると私などが浮舟に注意いたしましたので、二三度は返事をされたと思います。私はそれ以外は見ておりません」
薫は問い正せばこうまで言うものだ、更に問うのは可哀想だと、じっと考えながら、匂宮を、しみじみと恋しいと浮舟が思っても、、私の方も疎略に思わない時に、頼りにするかしないかを、匂宮か私かと、判断する事がなく浮舟は思慮の足らい心で、この宇治川が近所なのをあてにして入水しようと思ったのであろう。自分がここ宇治に浮舟を置くことをしなかったならば、暮らしにくい世の中にいるとしても、京で暮らしていたならば、どうして、わざわざ深い山奥の谷を捜し求め、身を投げる考を起こすであろうかと、薫は恨めしくつらい、宇治川との因縁であるなあと宇治川を疎ましく思う、薫の考えは深い。薫はかつて、なつかしいと思いそめた大君や中君や浮舟のせいで、
険しい山道を往復し浮舟が死んだいまは改めて恨めしくつらくて、この宇治の里の名称も、憂し里と、聞こえて聞きたくない気持であった。その上に、匂宮の北方の中君が、以前に初めて言った、人形と、つげた事までが、彼には忌ま忌ましくて縁起が悪く。祓の時の「人形」は水に流すものである。人形は宇治に置いた、自分の過失で無くしてしまった浮舟であると思いながら行くなかに、浮舟の母が、やはり低い身分のことを思い、浮舟の死後の葬送も見苦しく、且つ簡略にわざと執行したのであろうと、薫は浮舟に対して不本意に思っているのであったのにと、詳しいことを右近に聞いた時に、どの様に母親は思うであろう、受領の妻であるような身分の子としては、浮舟は顔形も心も、在りし日は立派な女であったの、匂宮との秘密の契りはきっと母親は知ることもなくて、自分の夫人女二宮のが浮舟に対してどんなつらい事をしたのかと、思って女二宮を恨んでいるであろう。と色々のことに母親の気持ちを気の毒に思うのである。死の穢と言うのは、浮舟はこの山荘内で死んだのでなく、また、遺骸に触れも見もしたのではないから、ここには此処にはないけれども、供の目もあるから山荘の屋内には入らないで、薫は車の槢 に腰を掛けて妻戸の前にいたのであるが、見苦しいので、繁った木の下の苔の上に座を造り暫く座っていた。薫は今から後は此処へ訪れることも無いであろうと、今日が最後と見回して、
我もまた憂き古里をあれ果てば
たれ宿り木の蔭をしのばん
(八宮を始め、大君以下の姫君達は今はおられないが、その人々と同様に自分も亦、このつらい古里(宇治)をもしも遠ざかって、古里が荒れ果てるならば、誰が宿り木の蔭(この宿)を思出すであろうか)
作品名:私の読む「源氏物語」ー82-蜻蛉 作家名:陽高慈雨