私の読む「源氏物語」ー79-東屋3-3
と、将来の事も考えずに、子供っぽく詠うのを見ている内に北方は涙がぽろぽろと溢れてきて、こんなに隠れ家などに押し込めて、途方に暮れさせ、落ちぶれた状態に、浮舟を扱う事よ、と悲しみも相当なものであるから、
うき世にはあらぬ所を求めても
君が盛りを見るよしもがな
(つらい俗世間でない場所をさがし求めて住んでいても、御身の幸福と繁栄とを見る方法があればよいがなあ)
と、ありのままの、何でもない歌などを浮舟と取り交わして気持を色々と話すのであった。
さてあの薫大将は例のごとく、秋が深まる頃に宇治へ行くのが習慣になっていたので、目が覚める度にしみじみと物悲しく思われのであったから、宇治の御堂が完成したと言うことを聞くと、薫自身が宇治へ出掛けた。久しぶりに見る宇治は久しく見なかったので山の紅葉が珍しく見えた。山荘の寝殿を壊した後に目がさめるように立派に新しく改築した。昔、簡素にして、八宮が出家した住まいを馨が思い出すと故宮もも恋しく思われて、改築して模様を変えてしまったので、残念に思うほど程まで感傷に耽って眺めていた。元の寝殿の飾りつけは、故八宮の持仏の据えてあった関係上、大層尊厳で重々しく、もう片方の部屋を、姫君達の為に女らしく飾りつけをこまごまとして、全体に一様でなかったが、新築の寝殿は、以前使っていた網代屏風やその外の何やかやの調度類で、粗末なものなどは、故八宮の仏事用のために、あの改造築の御堂の僧坊の道具にしてしまった。只、山里風の道具は寝殿用に痛んでない物を用いられて、簡素にしなくて、綺麗に由緒ありげに奥ゆかしく飾り付けた。薫は遣り水の側の岩に腰掛けて感激して急に立つ事が出来ない。
絶えはてぬ清水になどか亡き人の
面影をだにとどめざりけん
(人はこの世を去り山荘も昔と変ったのに無くなってしまわず、昔のままに湧いて流れる、この清水に、どうして、亡き人(八宮と大君)が、せめて面影だけでも留めないのであろう)
涙を流したのを拭きながら弁尼の許を訪れると、弁尼は薫をただ悲しいと見てただもう、べそを掻き通しである。薫は敷居の所にちょつと腰をおろして、簾の端をつまみ上げて面尼と話をする。弁尼は几帳の奥に隠れていた。薫は話のついでに、
「あの浮舟が先頃、二条院に来ていると、聞いたけれども、訪ねたいがさすがに、きまりが悪いように思えて訪問していない。だから今までのようにやっばり、私の考を弁尼から、伝言して下さい」
「先日、浮舟の母親からの文をもらいました。忌み違いというて二条とか三条とかこっちあっちと、どうもうろついているようである。最近は三条の小さな家に浮舟は隠れているようで、可哀想なので、宇治がもう少し近い距離であるならば、弁尼の許に移して匿って貰えば、私は当然安心しておられるのでしょうが。宇治までの山道が嶮しいので、容易に決心しかねておりまする。という内容でした」
「人々が、こんな荒々しい山道で、行きかねると言う程に、恐ろしがっているようである、宇治街道であるのに、私こそ、相も変らず踏み分けて来る。大君と、どれ程の深い宿縁なのであろうかと、考えるといかにも感慨無量である」
といつものように大君のことになると涙を流すのである。薫は弁尼に、
「三条の怪しい小家にいると言う事であれば、気の置けないような、その隠れ家に、消息文を送って下されよ。貴女がその隠れ家に出かけて下されませんか」
と薫が頼むと、
「おっしゃることを伝えるのは容易いことです。然しこの歳になって京を見るとは、私にとって気が進みませぬので頼みは聞かれません。中君の御殿にも、今はよう参りませぬからねえ」
弁尼は答える。
「どうして、ともかく、どうして出京を遠慮せられるのか。出京の事を、外の人が伝聞すればこそ、何かとあらぬ噂も立つであろう。愛宕山に籠もっていた聖僧でも、場合によっては京に出掛けることもある。京には出ないと仏への深い誓約を破っても、衆生の願望を満足させなされるような事こそ、尊いのである」
と、薫が弁尼に言うと、
「愛宕山の聖僧のように衆生などを済度する目的も、私にはござりませぬのに。なまじっか京などに出て行ったら、聞き苦しい噂も立つでありましょう」
と弁尼は迷惑そうに思うが、
「浮舟がその隠れ家にいるのは、丁度良い機会であるから」
人に強いる事もない薫が何時になく、無理強いをして、更に、
「明後日此処に車をよこそう。その時までに浮舟の隠れ家を探しておくように。決して、私は、馬鹿らしく不都合な間違いをするつもりは、ないからねえ」
と、薫は微笑んで言うので、弁尼は、
こんなに無理に言われるのは、薫が、どのように考えなされての事であろうかと、思うが、薫は考えのないでもなく、また、軽薄な心でもない御気性であるから、自然自分自身の名誉の御ためにも、外聞にかかわるようなことは慎んであられると思って、
「馬鹿らしく不都合な事をするつもりはないならば、承知仕りました。三条宮に近い距離に、隠れ家はござりまする。だから御文などを、予め浮舟に送
り置きなされませよ。わざわざ私が出しやぱって、私の考えで仲立するように、浮舟や北方などに思われるようなことは、改めて今、人の仲立をして悪く言われた伊賀たうめになるであろうかと、どうも、気が引けるのでござる」 と言う。「伊賀とたうめ」は狐のことで狐が騙すように仲立人は良いことばかりを言って二人をひっつけるところから出た、伊勢の方の言い方である。
薫は、
「消息文を書いてやるのは、簡単なことであるが、他人が、文が来たことで、かれこれ評判を立てる事がいやなものであるから、右大将は、どうも常陸守の娘を懸想していると言う事であると、きっと取沙汰をしようからなあ。娘の父、常陸介は、気質が荒々しそうであるように思う。故に軽はずみな事は、出来ない」
と言うと、弁尼は笑って、薫の細かい気の回し方を、気の毒であると思う。薫は日が暮れたので宇治から帰る。木の下草可愛らしいのを折ったり、紅葉の枝を折ったりして、帰って北方の女二宮に見せてあげた。帝の女二宮は、薫が冷淡ではないので、女二宮の気持ちを害するようなことはなく過ごしているのであるが、薫が恐縮して敬遠している状態で、薫はひどく女二宮に馴れ馴れしく話しかけるようなことがなかった。勿論体の関係もなかったのであろうか、帝から、普通の父親らしく薫の母の女三宮に女二宮の事を頼んでこられるので、正夫人として尊重する点では薫は怠りなかった。薫は帝と薫の母入道(女三宮)と、両方から、大切に面倒を見てもらえる女二宮への宮仕えの上に加えて。(薫があちこちから物を言われて煩わしいので、宮仕へと言った)浮舟への難しい個人的懸想心が加わったのも苦しいことであろう。
明後日と、前に弁尼に言った日の、まだ早朝に薫は目を掛けている家来一人と、顔をまだ知らない牛飼童に命じて、車を宇治に向かわした。薫は、
「荘園の者たちの中で、田舎者じみたのを召し出して、弁尼の車の護衛につけよ」
作品名:私の読む「源氏物語」ー79-東屋3-3 作家名:陽高慈雨