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私の読む「源氏物語」ー73-早蕨

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二人の間の襖の出入り口で薫と対面した。薫は逢う人が恥ずかしくなるほど上品で優美であり、さらに、以前に逢った時よりもさらに一段と全体的に整って、風情もあり、気配りは立派で、接するする人は皆感心するほどで、中君も薫を立派な貴人であるとみていたが、その上に、薫の顔や姿を見ると、目先から去らない姉君の事まで思出し、言葉が出ないほど心が動転して薫を見つめていた。
「大君のお話をすると尽きることがないので、明日は、めでたい引越という今日は、遠慮しましょう」
 中途まで言い出してやめながら、
「貴女の行かれる二条院の近くにあります三条院で私は過ごそうと近く移るつもりですから、そうなりますとよく言う、親しい同士は夜中でも夜明でも構わずに来往する、ということを家同士が相応しい者達が言います、ですから二条院へ移られてからどのような用件の場合にも、貴女が私を必要だと思われれば遠慮無く考えて、私にお知らせ下されば、私は生きている限り貴女に申しあげたり、又は用件を承り、そのようにして過ごしたいと考えていますが、貴女はどう思いですか。人の考えることは様々でありますから、私の申すことに気が向かぬかも分かりません、ですから私一存では決めかねることであります」
 と中君に薫が言うと、
「私は、宇治のこの宿から離れたくないと、深く想っていますのに、貴方まで、二条院の近所に移られるなど、宇治から離れるようにおっしゃいますと、どう考えを纏めて良いものかと心が乱れまして、貴方に申しあげることが出来ません」
 と、言葉のあちこちを途切れさせて、淋しそうに言うのを薫は大君に似た言い方をすると、薫は思い、自分の気持ちから中君を他人の女として、無理してみてきたと、思う故に
悔しくてたまらないのであるが、今になってはどうしようもないことで、大君と間違って女房の手引きで中君の側に臥したことを、一言も中君には言わないで、女房達からは忘れてしまっているのかと思われるほど、さっぱりと中君と応対した。
 中君の前に近い庭の紅梅が、色も香も昔なつかしい上に鶯もやってきて枝に止まって一鳴きしては他所へ渡っていく、春は昔の春であるが、恋しく思う大君は居ないと、大君を追慕して心を悩ます薫と中君の語らいは、感慨深いものであった。
 風が吹いて香りが吹き込んでくる、紅梅の香り、薫の素敵な体臭が、「五月待つ花たちばなの香をかげば昔の人の袖の香ぞする」(時鳥のやってくる五月を待ちながら咲き始めた橘の花の香りをかぐと、以前に親しくしていた人の懐かしい袖の香りがして、その頃のことがしみじみと思い出されることだ)という古今集の読み人知らずの歌ではないが、大君が存命中のことが思い出されるいとぐちとなった。中君は、毎日の退屈しのぎに、世の中の嫌なことの慰めに、姉君は心からこの紅梅を賞翫されたのにと、心が張り裂けるほどに大君を想うから、

見る人もあらしに迷ふ山里に
       昔お思ゆる花の香ぞする
(私がこの山荘を離れて京に去れば、眺める人もあるまいと思う、嵐のために花の吹き乱れる宇治の山里に、大君在世の昔が、自然に思出される紅梅の花の香が、いかにもする)

 と、切れ切れに言葉を出して中君が言うのを、薫が良い言葉だと纏めて一首にして詠う。

袖ふれし梅は変はらぬにほひにて
     ねごめうつろふ宿やことなる
(かつて私が袖を触れた梅は、昔と変らない匂で、しかも、その梅が、根もこめて移植せられる宿は、昔の宿と違うのであるか)(匂宮の御殿に移られ、私とは無縁となるのであるか)

 流れてくる涙を素早く隠して言葉少なく、
「京に移られた後もこのようにして、どんな事でも相談に乗り貴女をお助けいたします」 薫は言っておいて、座から立ち上がった。
中君の京への移動に必要な準備を女房達に薫は指示しておく。この山荘の留守居役にあの鬚面の男達が残るのであるが、この近くの薫の荘園にも山荘のことを言い置いて今後のことを決めておいた。弁御許が、
「京に御渡りのような御供をするにつけても
意外に長生きしていることが恥じ入ってますのに、外の人も、老人の御供を不吉と眺めることでしょうから、もうこの世を捨てた私は忘れられた者とお考え下さい」
 と同行を辞退する。尼姿に形を変えてしまった弁を、薫は無理に呼び出して、かっては柏木や柏木の北の方女二宮や大君の女房であったから、懐かしさが一入であるので例によっていつもよく聞く昔語りをさせて、薫は御許に、
「この山荘には私も時々来るようにするから、その時に知り合いがないのも淋しいので、この山荘に御許が残って居てくれるなら、私はとても嬉しく思うよ」
 と全部を言い切らずに涙ぐんでしまった。
弁御許は、
「いやだ嫌だと思えば思うほど命が延びていきます、つらいことです、また大君はどうして私を捨てて先に行っておしまいになったのかと、恨めしく思い、この世を恨むことが沢山ありますから、死後の罪も深いことと覚悟しています」
 と、思っている事などを、薫との親しさから愚痴っぽく、くどくど言うのを、彼はじっと聞き入って適切な言葉でこの老女房を慰めるのであった。弁尼は歳を取ってはいるが、昔は美しかったであろう髪の名残が、今は尼になって剃ってしまっているので、額の処の様子が変わってなんとなく若くなったような尼姿である。薫はその姿を見て大君を思い出し、どうして、弁尼のように、こんな尼姿にさせてあげなかったのか、もしも尼になったらその功徳で命も少し延びたのではなかろうか、もし長生きなさったならば、大君ともう少し深く仏道について語り合えたのに、などと、薫は弁尼を見て、あれこれと残念でたまらない、その上にこの弁尼までがと、側の几帳を引き避けて更に事細かな話を弁尼とする。弁尼はすっかり惚けてしまったようであるが、物を言うのや気配りは見劣りせず、昔、由緒のある人の出であると思われた。弁尼と中君の母である八宮の北方は従妹であった。弁尼は、

さきに立つ涙の川に身を投げば
        人におくれぬ命ならまし
(大君の死を悔い悲しんで、涙が先に立つが、悲しんでいるよりも、その先に立つ涙の川に身を投げるならば、私は、大君に後れずに死ぬ命なのであろうになあ)

 薫に泣き顔で詠う。
「涙の川に身を投げるのも、この世での罪の深いことであると思うよ。自然に死んで彼岸に着くことはあるが、身投げして自殺をしたら彼我に行き着くか却って地獄に堕ちて深い底で過ごすようになるかも知れないよ。総てこの世は空しいことだらけであると思い切るのだね」

身を投げん涙の川に沈みても
     恋しき瀬々に忘れしもせじ
(弁尼が身を投げるような涙の川に、私は沈んでも、恋しい折々に、大君を、忘れたりはしないと思うよ)
 いつになったら、大君のことを忘れることが出来るのであろうか」
 と、弁尼を戒めたけれども、自分の悲恋も忘れることが出来るのであろうかと、果てしない心境にどうすることも出来ない。薫は京に帰ろうとしても、なんとなく立ちかねて、じっと物を考え込んでいたが、日が暮れてきたので、何の用事もなくここに泊まることでもすれば匂宮がまた何か言うであろうと、不本意ではあるが京に帰った。