走れ! 第一部
ある秋のその日、俺は所沢で上本と会う約束をしていた。桜台の自宅から西武線で所沢へと向かう。数年前、俺が所沢のある会社を転職のために退職して以来、所沢へ行くのも久々だし、上本と会うのも久々だ。俺と上本は、その会社でいろいろと切磋琢磨し合った仲だ。とにかく上本とは気が合い、俺は周りから「上本の相棒」とまで言われた。そんな上本とは、仕事が終わった後、よく所沢の駅前の商店街にある古い大衆居酒屋でさんざん飲んだくれていた。飲んだくれて、仕事の愚痴とか、ロクでもない話ばかりをしていた。そんな思い出のあるその店で、久々に上本と会う。
桜台の駅から電車に乗り、隣の練馬に着くと、ちょうど地下鉄からの快速急行が止まっていたので、それに乗り換えた。3つ目の停車駅が所沢だ。タイミングよく速い電車に乗れたが、これでは上本と約束している予定の時間より早く所沢に着いてしまう。しかし、上本のことだ。もう約束の店に来て、すでに一人で一杯引っ掛けていることだろう。そう考えると、何となく安心し、電車の心地よい揺れと日々の疲れが俺を眠りの中に引きずり込んでいた。
しばらく眠り、ふと目を覚ますと、練馬から乗った電車はいつの間にか所沢の手前の秋津を通過していた。この電車は所沢を過ぎても通過する駅があるので、ここで目が覚めてよかった。眠い目をこすりながら電車を降りてコンコースを歩き、西口へ向かう。そこから続く商店街は、上本と飲んだくれていた頃と何も変わらない。まあ、俺が所沢を離れてからそんなに時間も経っていないから、変わっていたら驚きだが。
この商店街には、アーケードもない。コンタクトレンズ屋のビラ配りが何人も道に立ちはだかっており、そして、老若男女が入り乱れている。そんな中、流行している「ふなっしー」とか、「妖怪ウォッチ」のキャラクターの景品が並ぶゲームセンターの脇にある階段を下りて行くと、そこに上本と散々飲んだくれた大衆居酒屋がある。もう上本は来ているだろうか?
この店は創業50年らしく、その当時からあまり内装も変わっていないのか、店の中はまさに「昭和レトロ」という言葉がよく似合う。昼から営業しており、値段も安いので、上本とはここに入り浸っていた。上本は所沢に住んでいるので、ここへ来るのも苦労はない。店に入ると、白髪頭のマスターが出迎えてくれて、
「相棒、来てるよ!」
と、俺を席に案内した。やや広い店の中程にあるテーブル席。そこに上本がいた。いつからここにいるのか分からないが、すでにいつものウーロンハイを飲んで赤い顔をしていた。相変わらず、今日が休みの日だということをいいことに、飲んだくれている様子だった。手に何やら写真を持っており、じっとそれを眺めている。
「よう!」
俺が声をかけると、上本はようやく俺に気づき、眺めていた写真から顔を上げて、
「おお、やっと来たか!」
と、どこか嬉しそうに言う。俺も久々に上本と会えて嬉しく、そして、何も変わっていない様子のこいつを見て安心した。一息つきながら椅子に座り、注文を取りに来たマスターに生ビールを注文する。この店は注文の品がすぐに運ばれて来る。生ビールを持って来たマスターにいくつかつまみの一品料理を注文した。
「何だ?その写真……」
「これか……。まあ、乾杯しようや!」
「おう、そうだな……」
俺は上本が持ち上げたグラスに、自分のジョッキを軽く当てた。
「この写真、部屋を片付けていたら出て来てな。高校の時に撮った青森の海だ」
何かを懐かしむような顔で上本が言う。上本自身はこの近くの生まれだが、オヤジさんが青森の出身だと言っていたことを思い出した。
上本は手に持っていた写真を俺に寄越す。見ると、陽光がきらめく綺麗な海だった。写真を返すと、上本は昔語りを始めた。
あれは高校の何年生の時だったかなんて、そんなことは、今となってはもう覚えていない。ただ、2001年の話ということは覚えている。何しろ、前の年は「ミレニアム」だと騒いでいた人々が、年が明けた途端に今度は「21世紀だ!」と騒いでいたからな。その年の夏に、理由はよく覚えてないが、オヤジとえらい喧嘩をしたんだ。それで、ありったけの金を持って家を飛び出してな。家出なのに、なぜかおれは旅行気分でもあって、カメラまで持って行ったんだ。当時の最新型のデジカメだよ。それを持って、おれはとりあえず東京駅へ向かったんだ。なぜ東京駅かよく覚えてないけど、行き先なんて考えてなかったから、とりあえず東京駅へ行こうと思ったんだろうなあ。そこへ行けば、いろいろな方面への列車が出ているからな。
結局、青森へ行くことにした。理由はよく覚えていないが、オヤジのことを親戚の伯父さん達に言ってやろうと思って、行き先を青森にしたんだと思う。当時の東北新幹線は、まだ盛岡までだった。みどりの窓口で青森までの乗車券とか、盛岡までの新幹線の切符とか、いろいろ買って新幹線乗り場へ行った。おれが乗った今度の盛岡行きの列車は、どこかから満員になるんだろうなあという混み具合だったので、大宮ではなくて東京駅から乗って正解だった。ちなみに、乗った車両は初代東北・上越新幹線の200系だった。後から出た新型のE2系もあまり走っておらず、200系もまだまだ元気だった時代だよ。
列車は定刻通りに東京駅を出た。二人掛けの座席の窓側に座ってぼんやりしているうちに、列車は上野を出て大宮に着いた。上野からはあまり人が乗って来なかったが、大宮からは一気に人が乗って来てな。おれの隣にも誰か来るんだろうなあ、と思っていたら、
「お兄さん、ここいいですか?」
と、大きな荷物を持った若い女性がおれに声をかけた。栗色のセミロングヘアが印象的な女性だった。おれはその女性の元気な感じに、何だか気圧されてしまったよ。
「どうぞ……」
「どうもありがとう!」
そう言って、その女性は大きなカバンを足元に置いておれの隣に座り、カバンから何やら雑誌のようなものを出した。ちらりと見ると、それは青森のガイドブックだったよ。どうやら、向かっている先は同じようだった。
宇都宮を過ぎた辺りから、外の景色も畑や田んぼばかりの物悲しいものになって来て、それを見るのにも飽きていた。本でも持って来ればよかったと思ったその矢先だよ。その女性はいきなり本を閉じると、
「お兄さん、どこ行くの?」
と、何の前触れもなくおれに訊くんだ。あまりにも突然のことだったので、デタラメを言う余裕もなかった。
「青森です……」
「おお、一緒だね!」
おれが正直に答えると、その女性は何だか嬉しそうに言った。
「青森ってどんな所?」
「温泉があったり、海があったり……」
「温泉と海か……」
そう言って、何か思い当たる節でもあるのか、その女性はさっき閉じてからずっと手に持っていた青森のガイドブックを再び開き、ページをめくる。
「ん!ここ!」
と、おれに開いたページを見せた。浅虫温泉のページだった。
「私ね、ここに行くんだよ!」
その女性はそう言うと、ガイドブックを閉じておれに寄越した。
「お兄さんは青森のどこに行くの?」
「僕は……」
おれはガイドブックを受け取り、ページをめくって碇ヶ関のページを開いた。
「ここです」
「ん……?」
桜台の駅から電車に乗り、隣の練馬に着くと、ちょうど地下鉄からの快速急行が止まっていたので、それに乗り換えた。3つ目の停車駅が所沢だ。タイミングよく速い電車に乗れたが、これでは上本と約束している予定の時間より早く所沢に着いてしまう。しかし、上本のことだ。もう約束の店に来て、すでに一人で一杯引っ掛けていることだろう。そう考えると、何となく安心し、電車の心地よい揺れと日々の疲れが俺を眠りの中に引きずり込んでいた。
しばらく眠り、ふと目を覚ますと、練馬から乗った電車はいつの間にか所沢の手前の秋津を通過していた。この電車は所沢を過ぎても通過する駅があるので、ここで目が覚めてよかった。眠い目をこすりながら電車を降りてコンコースを歩き、西口へ向かう。そこから続く商店街は、上本と飲んだくれていた頃と何も変わらない。まあ、俺が所沢を離れてからそんなに時間も経っていないから、変わっていたら驚きだが。
この商店街には、アーケードもない。コンタクトレンズ屋のビラ配りが何人も道に立ちはだかっており、そして、老若男女が入り乱れている。そんな中、流行している「ふなっしー」とか、「妖怪ウォッチ」のキャラクターの景品が並ぶゲームセンターの脇にある階段を下りて行くと、そこに上本と散々飲んだくれた大衆居酒屋がある。もう上本は来ているだろうか?
この店は創業50年らしく、その当時からあまり内装も変わっていないのか、店の中はまさに「昭和レトロ」という言葉がよく似合う。昼から営業しており、値段も安いので、上本とはここに入り浸っていた。上本は所沢に住んでいるので、ここへ来るのも苦労はない。店に入ると、白髪頭のマスターが出迎えてくれて、
「相棒、来てるよ!」
と、俺を席に案内した。やや広い店の中程にあるテーブル席。そこに上本がいた。いつからここにいるのか分からないが、すでにいつものウーロンハイを飲んで赤い顔をしていた。相変わらず、今日が休みの日だということをいいことに、飲んだくれている様子だった。手に何やら写真を持っており、じっとそれを眺めている。
「よう!」
俺が声をかけると、上本はようやく俺に気づき、眺めていた写真から顔を上げて、
「おお、やっと来たか!」
と、どこか嬉しそうに言う。俺も久々に上本と会えて嬉しく、そして、何も変わっていない様子のこいつを見て安心した。一息つきながら椅子に座り、注文を取りに来たマスターに生ビールを注文する。この店は注文の品がすぐに運ばれて来る。生ビールを持って来たマスターにいくつかつまみの一品料理を注文した。
「何だ?その写真……」
「これか……。まあ、乾杯しようや!」
「おう、そうだな……」
俺は上本が持ち上げたグラスに、自分のジョッキを軽く当てた。
「この写真、部屋を片付けていたら出て来てな。高校の時に撮った青森の海だ」
何かを懐かしむような顔で上本が言う。上本自身はこの近くの生まれだが、オヤジさんが青森の出身だと言っていたことを思い出した。
上本は手に持っていた写真を俺に寄越す。見ると、陽光がきらめく綺麗な海だった。写真を返すと、上本は昔語りを始めた。
あれは高校の何年生の時だったかなんて、そんなことは、今となってはもう覚えていない。ただ、2001年の話ということは覚えている。何しろ、前の年は「ミレニアム」だと騒いでいた人々が、年が明けた途端に今度は「21世紀だ!」と騒いでいたからな。その年の夏に、理由はよく覚えてないが、オヤジとえらい喧嘩をしたんだ。それで、ありったけの金を持って家を飛び出してな。家出なのに、なぜかおれは旅行気分でもあって、カメラまで持って行ったんだ。当時の最新型のデジカメだよ。それを持って、おれはとりあえず東京駅へ向かったんだ。なぜ東京駅かよく覚えてないけど、行き先なんて考えてなかったから、とりあえず東京駅へ行こうと思ったんだろうなあ。そこへ行けば、いろいろな方面への列車が出ているからな。
結局、青森へ行くことにした。理由はよく覚えていないが、オヤジのことを親戚の伯父さん達に言ってやろうと思って、行き先を青森にしたんだと思う。当時の東北新幹線は、まだ盛岡までだった。みどりの窓口で青森までの乗車券とか、盛岡までの新幹線の切符とか、いろいろ買って新幹線乗り場へ行った。おれが乗った今度の盛岡行きの列車は、どこかから満員になるんだろうなあという混み具合だったので、大宮ではなくて東京駅から乗って正解だった。ちなみに、乗った車両は初代東北・上越新幹線の200系だった。後から出た新型のE2系もあまり走っておらず、200系もまだまだ元気だった時代だよ。
列車は定刻通りに東京駅を出た。二人掛けの座席の窓側に座ってぼんやりしているうちに、列車は上野を出て大宮に着いた。上野からはあまり人が乗って来なかったが、大宮からは一気に人が乗って来てな。おれの隣にも誰か来るんだろうなあ、と思っていたら、
「お兄さん、ここいいですか?」
と、大きな荷物を持った若い女性がおれに声をかけた。栗色のセミロングヘアが印象的な女性だった。おれはその女性の元気な感じに、何だか気圧されてしまったよ。
「どうぞ……」
「どうもありがとう!」
そう言って、その女性は大きなカバンを足元に置いておれの隣に座り、カバンから何やら雑誌のようなものを出した。ちらりと見ると、それは青森のガイドブックだったよ。どうやら、向かっている先は同じようだった。
宇都宮を過ぎた辺りから、外の景色も畑や田んぼばかりの物悲しいものになって来て、それを見るのにも飽きていた。本でも持って来ればよかったと思ったその矢先だよ。その女性はいきなり本を閉じると、
「お兄さん、どこ行くの?」
と、何の前触れもなくおれに訊くんだ。あまりにも突然のことだったので、デタラメを言う余裕もなかった。
「青森です……」
「おお、一緒だね!」
おれが正直に答えると、その女性は何だか嬉しそうに言った。
「青森ってどんな所?」
「温泉があったり、海があったり……」
「温泉と海か……」
そう言って、何か思い当たる節でもあるのか、その女性はさっき閉じてからずっと手に持っていた青森のガイドブックを再び開き、ページをめくる。
「ん!ここ!」
と、おれに開いたページを見せた。浅虫温泉のページだった。
「私ね、ここに行くんだよ!」
その女性はそう言うと、ガイドブックを閉じておれに寄越した。
「お兄さんは青森のどこに行くの?」
「僕は……」
おれはガイドブックを受け取り、ページをめくって碇ヶ関のページを開いた。
「ここです」
「ん……?」