私の読む「源氏物語」ー61-御法
御 法
紫の上は女ばかりで源氏の指導で奏楽をして楽しんだ以後、体調を崩し危篤状態になって一時は死亡説までが流れたのであったが持ち直しているのであるが、その後やはり何となく体が患っている感じが抜けないでいた。悩みながらも久しくその状態で年月が過ぎていった。快復する様子も見られず少しずつ衰弱して弱っていくのを源氏は本当に心配していた。紫に先立たれたら悲しさ堪え難さがたまらないであろうと思い、紫自身の気持は、何一つとして、この世に不足な事はなく、幸福に暮らし、心に残って気がかりな係累(子供)だって関係がない身の上であるから、この世に無理をしてまで生きていようとは考えないけれども、源氏との長い年月夫婦の縁を絶ち切ると、源氏が嘆かれるであろうことが、人には分からない紫の心中で、紫は、そのことがしみじみと悲しく思わずにはいられないのであった。
「往生極楽、後世安楽のために」というので、有り難い仏事供養などを紫はしばしば催し、是非とも、なんとしてでも本来の願望である尼の姿になって、病の身であるが少しでもこの世に生き残れるならば、その命のある間は仏道の修行を専心にして、他から邪魔されることなく過ごしたいと、不断に思っていたし、また源氏に頼んでいるのであるが、言辞はどうしても許してくれないのであった。そうは言うものの、源氏は、自分の気持にも紫が願望する出家のことが、かねてから考えていることであるから、紫がこのように出家を真剣に考える機会に、心をかきたてられて、紫と共に仏門に入ろうかと、氏は考えるのであるが、もし一歩仏門の道に入って家を出るとなると、二度と俗世界に帰ろうとは思っていない。又後の世の世界では同じ蓮の座に並んで坐ろうと固く紫と約束している夫婦の仲であるが、この現世にいながら、仏道を勤行なさるような間は、籠もるのは山であるが同じ峰ではなく、紫の姿を見ることなしに心を乱さぬように離れてしまおうと源氏は考えていたのであるが、紫がこのように体が弱り気の毒な紫の容態を、今自分も出家をしてこの世を離れて山籠もりしてしまえば、紫への心配を捨てることが出来ず、かえって山籠もりをしても、紫上の事が心にかかるので、山中の草庵の道心も、きっとかき乱されるに相違ないと、まごまごして考えている間に、思いつきのまま軽い道心で出家した朧月夜や朝顔斎院などに源氏は後れを取ってしまった。源氏が許さなくとも自分一人の考で、勝手に決心するとしても、それも体裁が悪く、自分の本心でもないように見られるであろうから、紫はこの出家不許可の事で源氏を恨んでいた。しかし、紫は自分でも、成仏のさわりとなる罪が軽くないせいであろうかと、出家が思うようにいかないことを時分のせいであるとも考えていた。
長年にわたって、自身の仏への御祈願のために、紫が、人々に書写させてあった法華経千部供養を急いで、香華・澄明・飲食や資財を奉って、三宝に奉仕する供養をすることにし、会場を自分の屋敷である二条殿で実施した。講師以下七種の役の僧の衣などそれぞれの役に応じて、品を替えて下賜された。衣の色、縫い目など総ての繕いが綺麗な縫い上げであった。大体は、供養の儀式進行の細部は非常に厳重に決められたものであるが、紫はそれを十分に理解していて理解していた。紫は今まであまり細かいことまで源氏に言わなかったので、今回の供養に関する詳しい事情についても源氏に詳しいことは言わなかったので、女の考えた計画としては充分にゆきとどいた上に、仏道にまで深く通じている紫の教養の程度などを見知り、全く底が知れない女であると思い、ただ、一通りの設備やそのほか女では手に負えないことだけを源氏は手伝った。供養当日の楽人や舞人の手配は夕霧がした。帝、春宮、秋好中宮と后となった明石中宮たちをはじめとして、源氏の六条院の婦人達(花散里や明石上その他)が、只、御布施(御誦経)や仏前への供物(捧物)などだけの事を並べるのに会場が狭いのに、それ以上にいつの間にこの大部の経巻等を紫が仕度したかと参列者は皆驚いた。供養の当日は花散里、明石の上なども二条院へ来訪した。
塗籠の南と東の戸を開けて紫は座っていた。そこは寝殿の西側の塗籠である。寝殿の北の廂に花散里や明石の上その他の源氏の側室達が障子を立てて位置していた。三月十日頃ともなれば花盛りで空もうららかに晴れ、総ての物が美しく見えて阿弥陀仏が居られる極楽のような風景であっても可笑しくないような気持ちになり、仏道にそう深い関心を持たない人でも、罪がなくなるような気持になるようであった。
02
大勢の僧たちの行道しつつ、法華経を褒めたたえる法華讃歎の声が集合しての音響が大きく響きがいかめしいのが心身が安らかであって、平素の落ちついている時にでも尊く有り難く感じるのであるが、まして体が弱り心も弱くなっているこの頃の紫にとっては法華賛歌は勿論どのような目の前のことにも心細く感じる。明石上の所に、その孫で養子にしている明石中宮腹の三宮(匂宮)を遣わして。紫は文を持って行かせた。匂宮は五歳である。
惜しからぬこの身ながらもかぎりとて
薪尽きなむことの悲しさ
(死んでも惜しくない、私のこの身であるものの、命の終りであると言って、薪の火が消えるように死んでしまう事が悲しいのである)
と、法華経、序品、第一に、釈迦入滅の時の事を「仏、コノ夜滅度シタマフ。薪尽キテ、火ノ滅スルガ如クナリキ」とあるのを頭に置いて、、村崎は歌を贈った。明石の返歌は、
「極楽往生は、喜ぷべきものなのに、心細い内容の歌を詠む事は、後の人が聞いても感心しないのではありませんか」いかにも、何となく思うままに、
薪こる思ひは今日を初めにて
この世に願ふ法ぞはるけき
(法華経に奉仕する願い(たきゞこる思ひ)は今日を最初として、今後、この現世で願いなされる仏法は、いかにも未長く続く。(故に、その仏法を願う御身は千歳の齢も保ちなさるであろう。)
夜を徹して念仏したり誦経したりする声に合わせ拍子を調えるた羯鼓の鼓の声が不断に聞え、楽しい。朝がほんのりと明けてくる頃、古今集の紀貫之が詠んだ「山桜霞の間よりほのかにも見てし人こそ恋しかりけれ(山桜を霞の間から見るように、ほのかに見かけたあなたが恋しくてたまりません)」の歌ではないが、目の前の庭に咲く花が、やっぱり、紫上が好むよう春の季節にあって匂いをそこら中に振りまき、沢山庭に来ている鳥たちの囀りが、演奏されている笛の音に劣らぬように聞こえ、しみじみとした情趣、面白さも、最高の時に、陵王が舞って舞の急調子になる時の終り方の楽が、上太鼓で花々しく賑かに聞かれると、今日の仏事に聴聞の人達が、舞人に祝儀(かずけ物)として脱いで与えたそれぞれが着ていた物の美しい色なども、このような催しの場合だけに麗しいことである。親王達や上達部のなかに楽器の上手な物が居て演奏したくて手ぐすね引いている者が思いっきり腕をふるって演奏したり舞をしたりする。身分の高い者も低い者も気持ちよく遊ぶのを紫が見ていて、自分の命がもうあまりない、と自分の身を覚悟した紫の心中には、人々の楽しく興ずるのも、仏法の有難さも、花鳥の面白さも総てがしみじみと寂しく感じるのであった。
紫の上は女ばかりで源氏の指導で奏楽をして楽しんだ以後、体調を崩し危篤状態になって一時は死亡説までが流れたのであったが持ち直しているのであるが、その後やはり何となく体が患っている感じが抜けないでいた。悩みながらも久しくその状態で年月が過ぎていった。快復する様子も見られず少しずつ衰弱して弱っていくのを源氏は本当に心配していた。紫に先立たれたら悲しさ堪え難さがたまらないであろうと思い、紫自身の気持は、何一つとして、この世に不足な事はなく、幸福に暮らし、心に残って気がかりな係累(子供)だって関係がない身の上であるから、この世に無理をしてまで生きていようとは考えないけれども、源氏との長い年月夫婦の縁を絶ち切ると、源氏が嘆かれるであろうことが、人には分からない紫の心中で、紫は、そのことがしみじみと悲しく思わずにはいられないのであった。
「往生極楽、後世安楽のために」というので、有り難い仏事供養などを紫はしばしば催し、是非とも、なんとしてでも本来の願望である尼の姿になって、病の身であるが少しでもこの世に生き残れるならば、その命のある間は仏道の修行を専心にして、他から邪魔されることなく過ごしたいと、不断に思っていたし、また源氏に頼んでいるのであるが、言辞はどうしても許してくれないのであった。そうは言うものの、源氏は、自分の気持にも紫が願望する出家のことが、かねてから考えていることであるから、紫がこのように出家を真剣に考える機会に、心をかきたてられて、紫と共に仏門に入ろうかと、氏は考えるのであるが、もし一歩仏門の道に入って家を出るとなると、二度と俗世界に帰ろうとは思っていない。又後の世の世界では同じ蓮の座に並んで坐ろうと固く紫と約束している夫婦の仲であるが、この現世にいながら、仏道を勤行なさるような間は、籠もるのは山であるが同じ峰ではなく、紫の姿を見ることなしに心を乱さぬように離れてしまおうと源氏は考えていたのであるが、紫がこのように体が弱り気の毒な紫の容態を、今自分も出家をしてこの世を離れて山籠もりしてしまえば、紫への心配を捨てることが出来ず、かえって山籠もりをしても、紫上の事が心にかかるので、山中の草庵の道心も、きっとかき乱されるに相違ないと、まごまごして考えている間に、思いつきのまま軽い道心で出家した朧月夜や朝顔斎院などに源氏は後れを取ってしまった。源氏が許さなくとも自分一人の考で、勝手に決心するとしても、それも体裁が悪く、自分の本心でもないように見られるであろうから、紫はこの出家不許可の事で源氏を恨んでいた。しかし、紫は自分でも、成仏のさわりとなる罪が軽くないせいであろうかと、出家が思うようにいかないことを時分のせいであるとも考えていた。
長年にわたって、自身の仏への御祈願のために、紫が、人々に書写させてあった法華経千部供養を急いで、香華・澄明・飲食や資財を奉って、三宝に奉仕する供養をすることにし、会場を自分の屋敷である二条殿で実施した。講師以下七種の役の僧の衣などそれぞれの役に応じて、品を替えて下賜された。衣の色、縫い目など総ての繕いが綺麗な縫い上げであった。大体は、供養の儀式進行の細部は非常に厳重に決められたものであるが、紫はそれを十分に理解していて理解していた。紫は今まであまり細かいことまで源氏に言わなかったので、今回の供養に関する詳しい事情についても源氏に詳しいことは言わなかったので、女の考えた計画としては充分にゆきとどいた上に、仏道にまで深く通じている紫の教養の程度などを見知り、全く底が知れない女であると思い、ただ、一通りの設備やそのほか女では手に負えないことだけを源氏は手伝った。供養当日の楽人や舞人の手配は夕霧がした。帝、春宮、秋好中宮と后となった明石中宮たちをはじめとして、源氏の六条院の婦人達(花散里や明石上その他)が、只、御布施(御誦経)や仏前への供物(捧物)などだけの事を並べるのに会場が狭いのに、それ以上にいつの間にこの大部の経巻等を紫が仕度したかと参列者は皆驚いた。供養の当日は花散里、明石の上なども二条院へ来訪した。
塗籠の南と東の戸を開けて紫は座っていた。そこは寝殿の西側の塗籠である。寝殿の北の廂に花散里や明石の上その他の源氏の側室達が障子を立てて位置していた。三月十日頃ともなれば花盛りで空もうららかに晴れ、総ての物が美しく見えて阿弥陀仏が居られる極楽のような風景であっても可笑しくないような気持ちになり、仏道にそう深い関心を持たない人でも、罪がなくなるような気持になるようであった。
02
大勢の僧たちの行道しつつ、法華経を褒めたたえる法華讃歎の声が集合しての音響が大きく響きがいかめしいのが心身が安らかであって、平素の落ちついている時にでも尊く有り難く感じるのであるが、まして体が弱り心も弱くなっているこの頃の紫にとっては法華賛歌は勿論どのような目の前のことにも心細く感じる。明石上の所に、その孫で養子にしている明石中宮腹の三宮(匂宮)を遣わして。紫は文を持って行かせた。匂宮は五歳である。
惜しからぬこの身ながらもかぎりとて
薪尽きなむことの悲しさ
(死んでも惜しくない、私のこの身であるものの、命の終りであると言って、薪の火が消えるように死んでしまう事が悲しいのである)
と、法華経、序品、第一に、釈迦入滅の時の事を「仏、コノ夜滅度シタマフ。薪尽キテ、火ノ滅スルガ如クナリキ」とあるのを頭に置いて、、村崎は歌を贈った。明石の返歌は、
「極楽往生は、喜ぷべきものなのに、心細い内容の歌を詠む事は、後の人が聞いても感心しないのではありませんか」いかにも、何となく思うままに、
薪こる思ひは今日を初めにて
この世に願ふ法ぞはるけき
(法華経に奉仕する願い(たきゞこる思ひ)は今日を最初として、今後、この現世で願いなされる仏法は、いかにも未長く続く。(故に、その仏法を願う御身は千歳の齢も保ちなさるであろう。)
夜を徹して念仏したり誦経したりする声に合わせ拍子を調えるた羯鼓の鼓の声が不断に聞え、楽しい。朝がほんのりと明けてくる頃、古今集の紀貫之が詠んだ「山桜霞の間よりほのかにも見てし人こそ恋しかりけれ(山桜を霞の間から見るように、ほのかに見かけたあなたが恋しくてたまりません)」の歌ではないが、目の前の庭に咲く花が、やっぱり、紫上が好むよう春の季節にあって匂いをそこら中に振りまき、沢山庭に来ている鳥たちの囀りが、演奏されている笛の音に劣らぬように聞こえ、しみじみとした情趣、面白さも、最高の時に、陵王が舞って舞の急調子になる時の終り方の楽が、上太鼓で花々しく賑かに聞かれると、今日の仏事に聴聞の人達が、舞人に祝儀(かずけ物)として脱いで与えたそれぞれが着ていた物の美しい色なども、このような催しの場合だけに麗しいことである。親王達や上達部のなかに楽器の上手な物が居て演奏したくて手ぐすね引いている者が思いっきり腕をふるって演奏したり舞をしたりする。身分の高い者も低い者も気持ちよく遊ぶのを紫が見ていて、自分の命がもうあまりない、と自分の身を覚悟した紫の心中には、人々の楽しく興ずるのも、仏法の有難さも、花鳥の面白さも総てがしみじみと寂しく感じるのであった。
作品名:私の読む「源氏物語」ー61-御法 作家名:陽高慈雨