私の読む「源氏物語」ー49-若菜 上ー4
三月弥生の十日過ぎに明石女御は無事に子供を出産した。出産に当たっては源氏を始めとして皆さん方が大変気にかけて心配したのであるが、出産に苦しむこともなく、しかも男児出産ということで、源氏の理想通りに事が進んで源氏の心は落ち着き安らかになった。 明石女御の仮住まいである花散里は裏住いの方なので、人けの近い端近である故に盛大な御産養である産後、三夜・五夜・七夜・九夜などに、食物や者物などを贈って見舞い賀宴を行う事が続けざまに行われ、祝賀の騒ぎの賑わしく盛んな様子は、尼が「老の波かひある浦に立ち出でて云々」と歌に詠んだように、実施されると尼君は想像するのであるが、
そこは六条院の端の方で、儀式が目立たなくてやりばえがしないから明石上方でせっかく尼君が期待していた産養の儀式がないようである。女三宮の住む寝殿の東、明石女御の御殿に明石女御と生まれた赤子は移ることになった。
産屋に紫も祝いに訪問する。出産のために白い衣服を産屋に出入りする際に着用する、明石女御の母親代わりとして女御を育てた紫は祖母のように赤子を腕の中に抱き上げた。
その姿は本当に美しく周りの女房達は見ていた。紫は出産の経験が無く、他の人の出産と言うことも立ち会ったり見舞ったりしたこともなく、明石女御の御産を、子供を産むということはこのように美しいものである、と感激していた。子供はまだ生れたてで扱いも面倒なのを紫が抱きかかえて離そうともしないので、本当の祖母である明石の上は子供を紫に預けておいてお湯の準備をする。
赤子の浴湯は春宮の宜旨と呼ばれている内侍の督である典侍が受け持った。明石上が産湯を使わす相手である「御迎え湯」の役になったことについて、典侍は、明石女御は源氏の子供ではあるが紫の上が産んだ子供ではなく今目前で作業をしている明石上が、明石入道の娘であり明石女御の実母で生まれた赤子の祖母であるという内々の事を、それとなく知っていたので、産湯を使わす明石の上の気持ちを察して感慨無量であり、明石の上に多少とも姿かたちに人に劣るところがあれば、明石女御のためにも気の毒であるが、目の前の彼女は秀でて気高く、なる程、皇子を孫に持つに相応しい幸運な宿縁が特に備わった女である、と思いながら明石の上を見ていた。この産湯の儀式のことはこれ以上語ることもあるまい。
出産をしてから六日目に明石女御は元々の自分の屋敷である六条院の南東の寝殿に帰ってきた。七日の夜に産養いという産後、三夜・五夜・七夜・九夜などに、食物や者物などを贈って見舞い賀宴を行う儀式の七日夜に当たり帝から祝宴の品々が届いた。春宮の父で生まれた子供の祖父である朱雀院が、承知のように出家をしているのでその代理であろうか、蔵人所から頭弁が冷泉帝の命を受けて、珍しい品々を赤子の許に運んできた。人々への祝いの禄の絹は、秋好中宮がこのような事例に際して一定の限度のある朝廷の定めを超えて立派にされた。その外、親王達や大臣の家々も、我も我もと産養の祝い品を贈ってきた。源氏もいつもながらこのような祝い事は簡略な事はしない評判になるほど大げさな世にも珍しい物を贈られたのであるが、人の目にもとまらずに終わってしまった。源氏も生まれて間もない孫を抱いて、
「夕霧のところは多くの孫が生まれたのであるが、私に一人として見せようとはしない、腹立たしい気持ちであるが、このように尊い血筋の孫を抱くことが出来てこの上もなく満足している、かわいい孫が授かったよ」
と慈愛を込めて皇子に言うのも当然のことである。
皇子は日に日に成長した。若宮の乳母は気心のわからない者を急いで雇うことをしないで、現在女御に仕えている女房の中で、人柄や気立ての良い者を選んで若宮付きとした。明石の上は物慣れて諸事に通じているのであるが、当然、身を引いていなければならないことには出しゃばりもしないで、若宮の祖母であるからと、得意になって人前に出しゃばるようなことはしないので、人々は奥ゆかしい女であると褒めていた。紫の上は正式に源氏に紹介されてはいないが、明石上と話をして、この人を昔は気に入らぬ女であると思って嫉妬をしていたのではあるが、今は若宮を得て明石の上の控えめがちな性格も知り、良き女であると思うのであった。紫は元来子供をとてもかわいがる性質の人であり、生まれた親王のために子供の這うような形の人形を手ずから造っているというように若々しいのである。紫は一日中朝も夜も生まれた若宮の側を離れないで世話をしている。あの明石の上の母の尼君は、生まれた孫に会いたいといつも思っていた。 若宮誕生ということがなければそんなに気にかかることが無く長生きが出来ると思うのであるが、孫の誕生がうれしく可愛くてたまらない気持ちが高ぶって長生きできそうにもなかった。
一方播磨の国明石の浦では明石の上の父である入道が孫が若宮を誕生したことを聞き、入道となって世を捨てたような人でも、世俗の人と同じように嬉しくて、
「これで今はもう、この世に思いを遺すことなく、安心して極楽往生できることよ」
と周りの弟子達に喜びの気持ちを伝え、若宮誕生を記念して住んでいる屋敷を寺に改造し、持っている田や畑などのものは、一切、その寺の領に寄進する事に定めておいて、自分は播磨の国の奥の、人も通わぬ山中を以前から所有して一旦は、
「あの地に籠もって隠棲してしまえば、もう二度と人には見られたり、知られたりすることはない」
と考えていたのであるが、孫娘の明石女御のことが気になり、孫の出産のことを聞いたならば山に籠もろうとしていたのが、今はもう安心して山に入れると神仏に祈願をして山に入っていった。最近は入道の書状が京に届くことがなかった。源氏が明石浦に使者を送ったときだけは消息をその使者に託して妻の尼君に季節のことを簡単に書き送っていた。そんな中で、いよいよ山籠もりに入るというので最後の文として明石の上に、
「おまえが生まれて今日までおまえの住むこの世に共に生きていたのであるが、こうした生活をしているまま、自分は世を捨てたような世界に入り、色々考えた末に、おまえに格別な用件のない以上は、消息もせず、またそちらのことも聞かなかった。私も毎日の讀経になれて、今は仮名文は読むのに時間がかかりそのために念仏も疎かになるようなこととなり、仮名文は何の得にもなりませぬ。何となく耳に入ったことによれば、孫の明石女御には春宮の女御となり、最近若宮誕生ということを聞きました、私は大変喜んでおります。それを聞いて私のような山伏が今になってこの世に栄えようとは考えもしません。過去の長い間、この俗界に未練がましく執着し、六時の読経勤行にもおまえの幸せだけを祈願をして、自分のことを怠っていました。おまえが生まれた年の二月に私は夢を見た、私自身が右手にこの世の中央にある山、須弥の山を、
捧げ持った時に山の左右より月の光が差し出てこの世を光り輝かせた。そうして私自身は、おまえ達の栄光に奢らずに身を隠し、やがて春宮が世を継いで帝になられるときに私は小さな船に乗って西の国へ旅たつ、というような夢を見たのである。
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そこは六条院の端の方で、儀式が目立たなくてやりばえがしないから明石上方でせっかく尼君が期待していた産養の儀式がないようである。女三宮の住む寝殿の東、明石女御の御殿に明石女御と生まれた赤子は移ることになった。
産屋に紫も祝いに訪問する。出産のために白い衣服を産屋に出入りする際に着用する、明石女御の母親代わりとして女御を育てた紫は祖母のように赤子を腕の中に抱き上げた。
その姿は本当に美しく周りの女房達は見ていた。紫は出産の経験が無く、他の人の出産と言うことも立ち会ったり見舞ったりしたこともなく、明石女御の御産を、子供を産むということはこのように美しいものである、と感激していた。子供はまだ生れたてで扱いも面倒なのを紫が抱きかかえて離そうともしないので、本当の祖母である明石の上は子供を紫に預けておいてお湯の準備をする。
赤子の浴湯は春宮の宜旨と呼ばれている内侍の督である典侍が受け持った。明石上が産湯を使わす相手である「御迎え湯」の役になったことについて、典侍は、明石女御は源氏の子供ではあるが紫の上が産んだ子供ではなく今目前で作業をしている明石上が、明石入道の娘であり明石女御の実母で生まれた赤子の祖母であるという内々の事を、それとなく知っていたので、産湯を使わす明石の上の気持ちを察して感慨無量であり、明石の上に多少とも姿かたちに人に劣るところがあれば、明石女御のためにも気の毒であるが、目の前の彼女は秀でて気高く、なる程、皇子を孫に持つに相応しい幸運な宿縁が特に備わった女である、と思いながら明石の上を見ていた。この産湯の儀式のことはこれ以上語ることもあるまい。
出産をしてから六日目に明石女御は元々の自分の屋敷である六条院の南東の寝殿に帰ってきた。七日の夜に産養いという産後、三夜・五夜・七夜・九夜などに、食物や者物などを贈って見舞い賀宴を行う儀式の七日夜に当たり帝から祝宴の品々が届いた。春宮の父で生まれた子供の祖父である朱雀院が、承知のように出家をしているのでその代理であろうか、蔵人所から頭弁が冷泉帝の命を受けて、珍しい品々を赤子の許に運んできた。人々への祝いの禄の絹は、秋好中宮がこのような事例に際して一定の限度のある朝廷の定めを超えて立派にされた。その外、親王達や大臣の家々も、我も我もと産養の祝い品を贈ってきた。源氏もいつもながらこのような祝い事は簡略な事はしない評判になるほど大げさな世にも珍しい物を贈られたのであるが、人の目にもとまらずに終わってしまった。源氏も生まれて間もない孫を抱いて、
「夕霧のところは多くの孫が生まれたのであるが、私に一人として見せようとはしない、腹立たしい気持ちであるが、このように尊い血筋の孫を抱くことが出来てこの上もなく満足している、かわいい孫が授かったよ」
と慈愛を込めて皇子に言うのも当然のことである。
皇子は日に日に成長した。若宮の乳母は気心のわからない者を急いで雇うことをしないで、現在女御に仕えている女房の中で、人柄や気立ての良い者を選んで若宮付きとした。明石の上は物慣れて諸事に通じているのであるが、当然、身を引いていなければならないことには出しゃばりもしないで、若宮の祖母であるからと、得意になって人前に出しゃばるようなことはしないので、人々は奥ゆかしい女であると褒めていた。紫の上は正式に源氏に紹介されてはいないが、明石上と話をして、この人を昔は気に入らぬ女であると思って嫉妬をしていたのではあるが、今は若宮を得て明石の上の控えめがちな性格も知り、良き女であると思うのであった。紫は元来子供をとてもかわいがる性質の人であり、生まれた親王のために子供の這うような形の人形を手ずから造っているというように若々しいのである。紫は一日中朝も夜も生まれた若宮の側を離れないで世話をしている。あの明石の上の母の尼君は、生まれた孫に会いたいといつも思っていた。 若宮誕生ということがなければそんなに気にかかることが無く長生きが出来ると思うのであるが、孫の誕生がうれしく可愛くてたまらない気持ちが高ぶって長生きできそうにもなかった。
一方播磨の国明石の浦では明石の上の父である入道が孫が若宮を誕生したことを聞き、入道となって世を捨てたような人でも、世俗の人と同じように嬉しくて、
「これで今はもう、この世に思いを遺すことなく、安心して極楽往生できることよ」
と周りの弟子達に喜びの気持ちを伝え、若宮誕生を記念して住んでいる屋敷を寺に改造し、持っている田や畑などのものは、一切、その寺の領に寄進する事に定めておいて、自分は播磨の国の奥の、人も通わぬ山中を以前から所有して一旦は、
「あの地に籠もって隠棲してしまえば、もう二度と人には見られたり、知られたりすることはない」
と考えていたのであるが、孫娘の明石女御のことが気になり、孫の出産のことを聞いたならば山に籠もろうとしていたのが、今はもう安心して山に入れると神仏に祈願をして山に入っていった。最近は入道の書状が京に届くことがなかった。源氏が明石浦に使者を送ったときだけは消息をその使者に託して妻の尼君に季節のことを簡単に書き送っていた。そんな中で、いよいよ山籠もりに入るというので最後の文として明石の上に、
「おまえが生まれて今日までおまえの住むこの世に共に生きていたのであるが、こうした生活をしているまま、自分は世を捨てたような世界に入り、色々考えた末に、おまえに格別な用件のない以上は、消息もせず、またそちらのことも聞かなかった。私も毎日の讀経になれて、今は仮名文は読むのに時間がかかりそのために念仏も疎かになるようなこととなり、仮名文は何の得にもなりませぬ。何となく耳に入ったことによれば、孫の明石女御には春宮の女御となり、最近若宮誕生ということを聞きました、私は大変喜んでおります。それを聞いて私のような山伏が今になってこの世に栄えようとは考えもしません。過去の長い間、この俗界に未練がましく執着し、六時の読経勤行にもおまえの幸せだけを祈願をして、自分のことを怠っていました。おまえが生まれた年の二月に私は夢を見た、私自身が右手にこの世の中央にある山、須弥の山を、
捧げ持った時に山の左右より月の光が差し出てこの世を光り輝かせた。そうして私自身は、おまえ達の栄光に奢らずに身を隠し、やがて春宮が世を継いで帝になられるときに私は小さな船に乗って西の国へ旅たつ、というような夢を見たのである。
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作品名:私の読む「源氏物語」ー49-若菜 上ー4 作家名:陽高慈雨