私の読む「源氏物語」ー45-藤裏葉
随伴の親王、上達部達に出された料理も常にはないものを源氏は調理するように命じて出させた。酒が出て参会者みんなが酔う頃に日が暮れ、源氏は内裏の楽所の楽人を呼び寄せて、物々しい音楽ではなくて、気楽な音楽を奏させて内裏の童を呼んできて舞いをさせる。見物をしている源氏は、十八歳の頃父の桐壺帝が朱雀院に行幸したときに、紅葉の下で父君にお見せした「青海波」の舞のことを思いだしていた。
「王の恩を賀す」という意味から、貴人の賀などの場でよく舞われる「賀皇恩」という曲が奏せられると太政大臣の子供で十歳ほどの男の子が見事な舞いを見せた。帝は、御衣を脱いで、褒美としてその童に下さる。父の太政大臣は早速庭に降りてお礼の舞を舞う。源氏は青海波を踊ったときにのことを再度思いだし、菊の花を折って太政大臣に、
色まさる籬の菊も折々に
袖うちかけし秋を恋ふらし
(花の色が勝った垣根の菊(高位に昇り、出世しておられる太政大臣)も、私(源氏)同様に、折々に、かつての昔、袖を打ちかけて舞った秋を恋しく思い出していると思う)
太政大臣も当時は頭中将と言い、亡き桐壺帝の前で源氏と並び青海波を踊ったことを、今は自分も太政大臣と昇進したが、源氏は準太上天皇となり優れた位になり未だに自分を超える果報者だと思い知らされた。時雨が降り顔に当たる、
紫の雲にまがへる菊の花
濁りなき世の星かとぞ見る
(紫の雲と見違えた菊の花(準太上天皇源氏の君)を、濁りのない聖代の星であるかと、いかにも私は見まする。どうも、花やかにめでたい御代でありました)
と源氏に返歌する。
夕風が濃いく薄くと紅葉した木々をふき動かす様は渡殿や庭に敷いた錦のように見え、身分の高い家の童で可愛らしい子達が、青い白橡(つるばみ)の袍(右舞の装束は青色)と、赤い白橡の袍(左舞の装束は赤色)で、青い袍には葡萄染の、赤い袍には蘇芳色の下襲など、左と右とに分けた時の平素の通りで、例の如く、童舞は、髪をみずらに結って、天冠だけ額にあてた様子を見せて、短い舞即ち小楽などを、あまり目だたずほんのりとかすかに舞いながら紅葉の木の陰に出たり入ったりする面白さに時間を忘れ日が暮れてしまうのが惜しいほどであった。
源氏が迎えた内裏の楽所の演奏も終わり、肩肘張った演奏は今回はなかった。日が暮れるに従って次は源氏達位の高い人達の演奏の遊びが始まる。源氏は内裏の書の司から楽器を持ってこさせた。音楽を聞いて気持ちが盛上っている時なので、冷泉帝・朱雀院・源氏と、それぞれの前に取り寄せた絃楽器類全部並べられた。桐壷帝の時代からの和琴の名器で、「宇陀の法師」と名付けられ内裏に秘蔵せられたものは、在位中、朱雀院は折々聞かれたであろうが、退位後は聞く機会がなかったので、懐かしく美しい音を聞いていた。朱雀院は、
秋をへて時雨ふりぬる里人も
かかる紅葉の折をこそ見ね
(幾度も秋を過して、年を取ってしまった私(里人)も、このような美しい紅葉の折を、どうも見た事はない)
いかにも朱雀院は自分はこのような行幸を催さなかったことを恨めしく思われているようである。冷泉帝は、
世の常の紅葉とや見るいにしへの
ためしにひける庭の錦を
(世間なみの紅葉見物と同様に、朱雀院は、御思いなさるであろうか。今日、私が行幸したのは、実は、只の行幸ではござりませぬ。桐壷帝が朱雀院に行幸なされた昔の例を、踏襲したに過ぎませぬ。それで、六条院の周囲に引きめぐらした紅葉の錦であるものを。(朱雀院が、御自分には、こんな行幸はなかったと、恨めしそうに御思いなさる事が、どうして、ござりましょうか)
と朱雀院の気持ちを和らげようと詠うのである。その冷泉帝の容姿は益々成長し十分に威厳が整い、「源氏と瓜二つ」と見えさらに夕霧がそこに伺候しているので、冷泉帝と源氏と夕霧がそっくりであるのは、大変驚きに思われるのであった。身分が違っているのであろう気品はそれぞれ少しづつ違うようである。ただし、はっきりとして、色つやのつやつやしい美しさの点は夕霧の若さが勝っていた。夕霧が笛をとって一曲奏でる、見事なものである。
催馬楽や朗詠を歌うだげの唱歌の殿上人が正面階段の下に並び歌う中で太政大臣の息子で柏木の弟の弁の少将の声が一段と優れて聞こえた。これも当然、何事にも優秀である宿縁と見られ、たぐいない源氏と太政大臣両家の御間柄のようである。
(藤裏葉終わり)
作品名:私の読む「源氏物語」ー45-藤裏葉 作家名:陽高慈雨