私の読む「源氏物語」ー34-初音
初 音
新年が来た。源氏は三十六歳、北の方である紫の上は二十八歳、側室である明石上は二十七歳、源氏と明石の間に生まれて紫の上が養女として育てている明石姫は八歳、十六年ぶりに見つけ出した頭中将と源氏が側室にしようとしたが急に亡くなった夕顔との間に出来た娘玉鬘は、父親には知らされないままに源氏の六条の屋敷に花散る里と共に生活している、二十二歳になる、源氏と亡くなった北の方葵の上との間に生まれた息子の夕霧は十五歳になった。
元日の朝は一点の曇りもない快晴であった。冬の名残も消え失せて、冷たい空気はぬくもりを帯びてきてどんな家でも、残雪の間の草が若々しく緑に色づき初め、早くも霞が立ちこめた中に、木の芽も小さな頭を出し、自然の営みも人の気持ちものびのびとのどかに見えるのであった。まして、玉のような砂利を敷きつめた源氏の住まいの前庭をはじめとして庭中の造園には見所が多く、それを眺める新年の美しく着飾った夫人方の様子は、どう人に伝えて好いのか言葉がとても不足する。
春の庭は、特別で、梅の香りと御簾の中からこぼれてくる薫物の匂いとが混じり合って、庭の眺めと一体になって集まった者たちをこの世の極楽浄土に誘い込まれたと思わす。源氏達はそのような屋敷の中にゆったりと、落ち着いて住んでいるのである。それぞれの夫人方に仕えている女房たちも、源氏は若くて見栄えの好い者は、明石の姫君にと選び、自分や夫人たちの側には少し年輩の女房ばかりで、それがかえって風情があって、装束や着こなしの様子などをはじめとして、見苦しくなく取り繕って、あちらこちらに集まっては、長命、健康にあやかる元日の御祝である歯固めをして、その上鏡餅まで、自分の局に飾ってあるのを取り寄せて、それに向い、和歌を謡って、源氏からの長く変らぬ御庇護の下に、主家と自分達の健康長寿の祝い事をわいわいと唱えて、戯れ合っているところに、源氏が顔を出したので、女房達は乱れた装束や座り直して居住まいを正し、
「まあ、恥ずかしいところに殿さまが」
と、きまり悪がる。源氏は笑いながら、
「なんとご立派なご自分達だけの祝い言ですね。皆さんそれぞれ願い事がいろいろとあるだろう。その願いを少し聞かせてくれよ。その願いが叶うように今度は私が歯固め祝いをして上げようぞ」
と、にこにこ笑いながら女房達に言う源氏を、集まっていた女房達は年の初めのめでたさと、主人の源氏を見ていた。その中に混じっていた古参で幅もきくと、自負して居た老女房の中将の君が「『もうすでに、殿の千歳の栄えは、明瞭である』など、鏡餅に向って、語りかけているのでござりました。自分の願い事などとはとんでも御座いません」
などと申し上げる。中将は源氏の若い頃からの女房で、独り寝の折には添い寝をしてくれる仲であった。
元日の朝は年賀に来る人々で六条院の源氏の屋敷は混み合い、何となく騒がしかったが、夕方からは、北の方である紫の上をはじめとしてそのほかの夫人かたがたへの年賀の挨拶をしようと、念入りに衣装を整え、化粧などをした姿は、まことにいつみても目を見張るような美男であった。正妻の紫の上の前に現れて源氏は、
「今朝、これらの女房たちが歯固めと言ってじゃれ合っていたのが、とても羨ましく見えたので、紫の上にはわたしが歯固めの祝いをしてあげることにするよ」
と、ご冗談なども少し交えて、紫にお祝いの歌を詠う、
薄氷解けぬる池の鏡には
世に曇りなき影ぞ並べる
(薄氷が春の日にとけてしまった池の鏡のような水面には、世に類の無い幸運の持ち主二人の影が楽しそうに並んで映っている)
素晴らしい二人の夫婦仲とみえる、紫は、
曇りなき池の鏡によろづ代を
すむべき影ぞしるく見えける
(一点の曇りのない池の鏡に、幾久しくここに住んで行くわたしたちの影がはっきりと映っています)
このように源氏と紫は何事につけても、幾久しいご夫婦の縁を、他人から見ると理想的な夫婦と、歌を詠み交わすのである。たまたま元日は、子の日であった。子の日は、小松を引き抜いて来て、移し植える日であるから、なる程、千年も長い間の春をかけて、祝うとしても、もっともな日なのであった。
源氏が紫が養育している明石の姫のところに来ると、子の日の祝いに童女や、下仕えの女房たちなどが、お庭先の築山の小松を引いて遊んでいる。若い女房たちも自分たちも参加したくて、じっとしていられないように見える。母親の北の御殿の明石から、特別に用意した幾つもの果物を竹で編んだ鬚籠に入れたのや、破子という仲を区切った折り箱にお正月の食べ物を入れた物が差し入れされた。庭の素晴らしい五葉の松の枝から枝へと飛ぶ交う鴬も、庭で戯れる童達と同じように、思う子細があるのであろう。明石の上から我が子に、
年月を松にひかれて経る人に
今日鴬の初音聞かせよ
(長い年月を子どもの成長を待ち続けていました
わたしに、今日はその鶯の初音のように、貴女の初便りを聞かせてください)
『姫君の声の聞えない所には、住んで居る甲斐がありません、是非に』」
という文を源氏が見て、
「なるほど、ほんとうに」と母親の明石の君の気持ちを察すると、正月に縁起でもない涙があふれてきた。源氏は姫に、
「このお返事は、ご自身で書きなさい。貴女のお母さんでありますから初便りをしないことは、いけませんよ」
と、、硯を用意し墨をすって、姫に文を書かせる。文を認める姫の姿が大変可愛らしく、朝夕その姿を見ている者でさえ、見飽きないのであるが、実の母親に今まで会わせないで年月が過ぎてしまったのも、源氏には「明石に罪作りで、気の毒なことをした」と思うのである。姫の返事は、
ひき別れ年は経れども鴬の
巣立ちし松の根を忘れめや
(別れて何年も経ちましたが、わたしは生みの母君を忘れましょうか)
子供心に思った事をそのままに、細々と書いたようである。
北にあって夏涼しいので北の御殿と言うのであろうか、花散る里の住まいを訪ねると、夏ではないので、とても静かで、特別に風流なこしらえもなく、上品に暮らしている様子がここかしこに窺えた。
源氏と花散る里は年月が過ぎても、二人の仲の愛情は変わりなく、静かに並んで座っていてもお互いの心は通じている夫婦仲である。今では、無理に共寝をして確かめ合わなくとも、充分二人の愛は通じているのであった。体の関係がなくともたいそう仲睦まじく世間には珍しいまたとない夫婦の関係で過ごしている。源氏が几帳を隔てて座っていて、少し几帳を動かしても、彼女は動きもしないでそのままで源氏と話をしている。
花散る里が着ている縹色の袿は、どちらかというとはなやかでない色合いで、彼女の髪などもたいそう盛りを過ぎて少なくなっている。それを源氏が見て、
「恥ずかしい程度のものではないけれども、こんなに髪が薄くなったなら、かもじを入れて繕われたら。わたし以外の人だったら、愛想づかしをするに違いない女を、こうしてお世話することは自分ながら我が心の深さに満足している。考えの浅い女と同じように、共寝もしない私を見限って離れてしまったらどうなることであろうか」
新年が来た。源氏は三十六歳、北の方である紫の上は二十八歳、側室である明石上は二十七歳、源氏と明石の間に生まれて紫の上が養女として育てている明石姫は八歳、十六年ぶりに見つけ出した頭中将と源氏が側室にしようとしたが急に亡くなった夕顔との間に出来た娘玉鬘は、父親には知らされないままに源氏の六条の屋敷に花散る里と共に生活している、二十二歳になる、源氏と亡くなった北の方葵の上との間に生まれた息子の夕霧は十五歳になった。
元日の朝は一点の曇りもない快晴であった。冬の名残も消え失せて、冷たい空気はぬくもりを帯びてきてどんな家でも、残雪の間の草が若々しく緑に色づき初め、早くも霞が立ちこめた中に、木の芽も小さな頭を出し、自然の営みも人の気持ちものびのびとのどかに見えるのであった。まして、玉のような砂利を敷きつめた源氏の住まいの前庭をはじめとして庭中の造園には見所が多く、それを眺める新年の美しく着飾った夫人方の様子は、どう人に伝えて好いのか言葉がとても不足する。
春の庭は、特別で、梅の香りと御簾の中からこぼれてくる薫物の匂いとが混じり合って、庭の眺めと一体になって集まった者たちをこの世の極楽浄土に誘い込まれたと思わす。源氏達はそのような屋敷の中にゆったりと、落ち着いて住んでいるのである。それぞれの夫人方に仕えている女房たちも、源氏は若くて見栄えの好い者は、明石の姫君にと選び、自分や夫人たちの側には少し年輩の女房ばかりで、それがかえって風情があって、装束や着こなしの様子などをはじめとして、見苦しくなく取り繕って、あちらこちらに集まっては、長命、健康にあやかる元日の御祝である歯固めをして、その上鏡餅まで、自分の局に飾ってあるのを取り寄せて、それに向い、和歌を謡って、源氏からの長く変らぬ御庇護の下に、主家と自分達の健康長寿の祝い事をわいわいと唱えて、戯れ合っているところに、源氏が顔を出したので、女房達は乱れた装束や座り直して居住まいを正し、
「まあ、恥ずかしいところに殿さまが」
と、きまり悪がる。源氏は笑いながら、
「なんとご立派なご自分達だけの祝い言ですね。皆さんそれぞれ願い事がいろいろとあるだろう。その願いを少し聞かせてくれよ。その願いが叶うように今度は私が歯固め祝いをして上げようぞ」
と、にこにこ笑いながら女房達に言う源氏を、集まっていた女房達は年の初めのめでたさと、主人の源氏を見ていた。その中に混じっていた古参で幅もきくと、自負して居た老女房の中将の君が「『もうすでに、殿の千歳の栄えは、明瞭である』など、鏡餅に向って、語りかけているのでござりました。自分の願い事などとはとんでも御座いません」
などと申し上げる。中将は源氏の若い頃からの女房で、独り寝の折には添い寝をしてくれる仲であった。
元日の朝は年賀に来る人々で六条院の源氏の屋敷は混み合い、何となく騒がしかったが、夕方からは、北の方である紫の上をはじめとしてそのほかの夫人かたがたへの年賀の挨拶をしようと、念入りに衣装を整え、化粧などをした姿は、まことにいつみても目を見張るような美男であった。正妻の紫の上の前に現れて源氏は、
「今朝、これらの女房たちが歯固めと言ってじゃれ合っていたのが、とても羨ましく見えたので、紫の上にはわたしが歯固めの祝いをしてあげることにするよ」
と、ご冗談なども少し交えて、紫にお祝いの歌を詠う、
薄氷解けぬる池の鏡には
世に曇りなき影ぞ並べる
(薄氷が春の日にとけてしまった池の鏡のような水面には、世に類の無い幸運の持ち主二人の影が楽しそうに並んで映っている)
素晴らしい二人の夫婦仲とみえる、紫は、
曇りなき池の鏡によろづ代を
すむべき影ぞしるく見えける
(一点の曇りのない池の鏡に、幾久しくここに住んで行くわたしたちの影がはっきりと映っています)
このように源氏と紫は何事につけても、幾久しいご夫婦の縁を、他人から見ると理想的な夫婦と、歌を詠み交わすのである。たまたま元日は、子の日であった。子の日は、小松を引き抜いて来て、移し植える日であるから、なる程、千年も長い間の春をかけて、祝うとしても、もっともな日なのであった。
源氏が紫が養育している明石の姫のところに来ると、子の日の祝いに童女や、下仕えの女房たちなどが、お庭先の築山の小松を引いて遊んでいる。若い女房たちも自分たちも参加したくて、じっとしていられないように見える。母親の北の御殿の明石から、特別に用意した幾つもの果物を竹で編んだ鬚籠に入れたのや、破子という仲を区切った折り箱にお正月の食べ物を入れた物が差し入れされた。庭の素晴らしい五葉の松の枝から枝へと飛ぶ交う鴬も、庭で戯れる童達と同じように、思う子細があるのであろう。明石の上から我が子に、
年月を松にひかれて経る人に
今日鴬の初音聞かせよ
(長い年月を子どもの成長を待ち続けていました
わたしに、今日はその鶯の初音のように、貴女の初便りを聞かせてください)
『姫君の声の聞えない所には、住んで居る甲斐がありません、是非に』」
という文を源氏が見て、
「なるほど、ほんとうに」と母親の明石の君の気持ちを察すると、正月に縁起でもない涙があふれてきた。源氏は姫に、
「このお返事は、ご自身で書きなさい。貴女のお母さんでありますから初便りをしないことは、いけませんよ」
と、、硯を用意し墨をすって、姫に文を書かせる。文を認める姫の姿が大変可愛らしく、朝夕その姿を見ている者でさえ、見飽きないのであるが、実の母親に今まで会わせないで年月が過ぎてしまったのも、源氏には「明石に罪作りで、気の毒なことをした」と思うのである。姫の返事は、
ひき別れ年は経れども鴬の
巣立ちし松の根を忘れめや
(別れて何年も経ちましたが、わたしは生みの母君を忘れましょうか)
子供心に思った事をそのままに、細々と書いたようである。
北にあって夏涼しいので北の御殿と言うのであろうか、花散る里の住まいを訪ねると、夏ではないので、とても静かで、特別に風流なこしらえもなく、上品に暮らしている様子がここかしこに窺えた。
源氏と花散る里は年月が過ぎても、二人の仲の愛情は変わりなく、静かに並んで座っていてもお互いの心は通じている夫婦仲である。今では、無理に共寝をして確かめ合わなくとも、充分二人の愛は通じているのであった。体の関係がなくともたいそう仲睦まじく世間には珍しいまたとない夫婦の関係で過ごしている。源氏が几帳を隔てて座っていて、少し几帳を動かしても、彼女は動きもしないでそのままで源氏と話をしている。
花散る里が着ている縹色の袿は、どちらかというとはなやかでない色合いで、彼女の髪などもたいそう盛りを過ぎて少なくなっている。それを源氏が見て、
「恥ずかしい程度のものではないけれども、こんなに髪が薄くなったなら、かもじを入れて繕われたら。わたし以外の人だったら、愛想づかしをするに違いない女を、こうしてお世話することは自分ながら我が心の深さに満足している。考えの浅い女と同じように、共寝もしない私を見限って離れてしまったらどうなることであろうか」
作品名:私の読む「源氏物語」ー34-初音 作家名:陽高慈雨