私の読む「源氏物語」ー32-玉鬘
玉 鬘
源氏は三十四歳になった。紫の上は二十六歳、明石の上は二十五歳。
源氏は四帖で紹介したように、その頃秘かに六条御息所と関係があり、しばしば六条に向かって車を走らせていた。六条御息所は先の東宮であった夫に死なれて二十四歳、その娘が現在冷泉帝の后になった秋好中宮である。源氏は十七歳、時は夏の暑い盛りであった。源氏の行く先は御息所の屋敷であったが、たまたま自分の乳母であった大弐の女房が病であることを、今は自分の従者になっている彼女の息子、源氏とは乳兄弟の惟光から聞いていたので、大弐を見舞おうと五条の彼の家に寄ることにした。
惟光の家の前で開門を待っているときに、隣の夕顔の咲く家に美しい源氏好みの女を見つけて交際が始まったのである。夕顔が取り持つ縁であるので源氏は彼女を夕顔と呼んでいたが、やがて彼女は頭中将の女であることが分かり二人の間に女の子供が生まれていたことを知る。だが源氏が知り合った頃は頭中将の女への熱意は冷めて寄りつくことがなく、女は淋しく暮らしていた。歳は少し上であったが源氏はこの女が好きになりどうしても自分のものにしようと連れ出し、帝の別院であるところで一夜を過ごすが、源氏と愛深い関係の女の怨霊に取り憑かれて女は死んでしまう。北山で葬儀をしたのであるが、源氏はその夕顔という女を今も心の隅にとどめていて忘れることが出来なかった。それから十七年経ている。夕顔と逢う前それから後、源氏は何人かの女と関係を持ったのであるが、心と体が共に安心してつきあえる女はなかった。夕顔がこの世に生きていれば、と死んだ彼女のことが可愛そうで残念でたまらなく思うのである。
夕顔亡き後源氏が手元に引き取った彼女の女房であった右近は、たいした女ではなかったが、源氏は夕顔の形見と考えて、目を掛けているので、今では源氏の古参女房の一人となっていた。源氏が須磨へ退去したときに、自分の女房を全員紫の上の女房に振り替えて以来、紫のいる寝殿、東の対で仕えている。この女は気立てがよく控え目な性質の女房だと、紫も大事に思うのである。しかし右近は心の底では、
「亡くなった夕顔様が今生きていたならば、明石の御方くらいのご寵愛を受けておられたろうに。源氏様はそれほど深く愛していない女にも、一度関係があると見捨てることなく、面倒を見てあげる心優しい方であるので、紫の上のような身分の高い人たちと同列とはならないが、夕顔様はこの度の入居された花散る里や明石のお方達と同列に扱われたことであろう」
と亡き主人夕顔を思うと、悲しんでも悲しみきれない思いであった。
右近は、せめてあの西の京に残された若君だけでも-その行方も分らないし、ひたすら亡き主人の夕顔が亡くなったことを世に知られないように口を慎み、源氏からも、
「亡き主人のことを今更発表しても始まらないことだから、うっかりとしゃべって私のことを世間に漏らすな」
と、口止めされているので何となく若君のことを聞くことが出来ず、夕顔が亡くなってまもなく若君の乳母の夫が、大宰少弍になって、赴任したので、若君を伴って九州に下ってしまった。あの若君が四歳になる年であった。
夕顔の遺児である女の子供は玉鬘と名乗っていた。四歳の彼女は母親の行方を知りたいと思って、乳母と共にいろいろの神仏に願掛けして歩き、乳母は夜昼となく母を恋したって泣く玉鬘をなだめながら、心当たりの所々を探すのであったが、結局探し当てることは出来なかった。乳母は、
「それではどうしようもない。せめて姫様だけでも、ご主人のお形見としてお世話いたしましょう。しかし筑紫の太宰府にお連れするには遠い道中を旅されるのもおいたわしいこと。やはり、父君にそれとなくお話し申し上げよう」
と夕顔の男であった頭中将に相談しようと思ったが、中将に会う適当な伝もないまま乳母は考えた、
「姫の母君が現在どこに住んで居られるのも知らないで、中将が私に尋ねられたら、何にも知らない私はどう返事をして好いのやら」
乳母は大宰少弍との間に娘が二人あった。玉鬘には乳姉妹の関係になるが、玉鬘と違って既に娘盛りに近い、その娘が、
「中将にはまだ、十分に姫を見慣れていられないのに、幼い姫君を手許に引き取られるのも何となく不安なことでしょう」
もう一人の娘は、
「中将がお知りになりながら、姫君を筑紫へ連れて下ってよいとは、お許しになるはずもありますまい」
などと、乳母は娘達と互いに相談し合って、とてもかわいらしく、子供でありながら既に気品があって美しいご器量の玉鬘を、立派とは言えない設備もない舟に乗せて伏見から漕ぎ出す。乳母は姫君の都落ちがとても哀れに思われた。
玉鬘も子供心に母君のことを忘れず、時々、
「私はこのお舟で母君様の所へ行くの」
と嬉しそうに乳母に尋ねるにつけて、乳母は涙の止まる時がなく、娘たちも姫の気持ちに同情して胸が詰まるが、
「舟旅に涙は不吉だ」
と、泣く一方で、堪えるように制すのであった。
美しい景色をあちこち見ながら、乳母や娘達は主人の夕顔が優しい感情豊かな性質であったので、
「ご主人は気持ちが若い方でしたので、こうした舟旅の美しい景色をお見せ申し上げたかったですね」
「いいえそのようなことを、ご主人がいらっしゃいましたら、私たちは下ることもなかったでしょうに」
と、一行は都の方ばかり思いやられて、寄せては返す波の様子までも羨ましく、一同心細く思っている時に、舟子たちが荒々しい声で、
「物悲しくも、こんな遠く筑紫近くにまで来てしまったよ」
と謡うのを聞くと、とたんに娘二人とも向き合って泣いたのであった。乳母の娘は姉はおもと、妹はあてきと名乗った。おもとは、
舟人も誰を恋ふとか大島の
うらがなしげに声の聞こゆる
(舟人も誰を恋い慕ってか大島の浦に悲しい声が聞こえます)
と詠うと、妹のあてきも、
来し方も行方も知らぬ沖に出でて
あはれいづくに君を恋ふらむ
(来た方角もこれから進む方角も分からない沖に出てああどちらを向いて女君を恋い求めたらよいのでしょう)
遠く都を離れて、二人とも寂しさと不安を隠そうと詠むのであった。
やがて舟は筑紫の宗像の沖、金の岬を過ぎても、
「私たちは夕顔様を忘れない」
などと、二人の姉妹は明けても暮れても口ぐせになって、太宰府に到着してからは、本当に遠くに来てしまったことを思い都恋しと涙を流し、お連れしたこの玉鬘姫君を大切にお世話して、毎日を送っていた。
乳母の夢などに、ごく稀に夕顔が現れる時などもあった。夕顔と同じ姿をした女などが、一緒に夢に現れる、そのような夢を見ると必ずその後に気分が悪くなったりなどしたので、乳母は、
「やはり、ご主人は亡くなられたのだろう」
と諦める気持ちになるのが、乳母としてはとても悲しい思いであった。
源氏は三十四歳になった。紫の上は二十六歳、明石の上は二十五歳。
源氏は四帖で紹介したように、その頃秘かに六条御息所と関係があり、しばしば六条に向かって車を走らせていた。六条御息所は先の東宮であった夫に死なれて二十四歳、その娘が現在冷泉帝の后になった秋好中宮である。源氏は十七歳、時は夏の暑い盛りであった。源氏の行く先は御息所の屋敷であったが、たまたま自分の乳母であった大弐の女房が病であることを、今は自分の従者になっている彼女の息子、源氏とは乳兄弟の惟光から聞いていたので、大弐を見舞おうと五条の彼の家に寄ることにした。
惟光の家の前で開門を待っているときに、隣の夕顔の咲く家に美しい源氏好みの女を見つけて交際が始まったのである。夕顔が取り持つ縁であるので源氏は彼女を夕顔と呼んでいたが、やがて彼女は頭中将の女であることが分かり二人の間に女の子供が生まれていたことを知る。だが源氏が知り合った頃は頭中将の女への熱意は冷めて寄りつくことがなく、女は淋しく暮らしていた。歳は少し上であったが源氏はこの女が好きになりどうしても自分のものにしようと連れ出し、帝の別院であるところで一夜を過ごすが、源氏と愛深い関係の女の怨霊に取り憑かれて女は死んでしまう。北山で葬儀をしたのであるが、源氏はその夕顔という女を今も心の隅にとどめていて忘れることが出来なかった。それから十七年経ている。夕顔と逢う前それから後、源氏は何人かの女と関係を持ったのであるが、心と体が共に安心してつきあえる女はなかった。夕顔がこの世に生きていれば、と死んだ彼女のことが可愛そうで残念でたまらなく思うのである。
夕顔亡き後源氏が手元に引き取った彼女の女房であった右近は、たいした女ではなかったが、源氏は夕顔の形見と考えて、目を掛けているので、今では源氏の古参女房の一人となっていた。源氏が須磨へ退去したときに、自分の女房を全員紫の上の女房に振り替えて以来、紫のいる寝殿、東の対で仕えている。この女は気立てがよく控え目な性質の女房だと、紫も大事に思うのである。しかし右近は心の底では、
「亡くなった夕顔様が今生きていたならば、明石の御方くらいのご寵愛を受けておられたろうに。源氏様はそれほど深く愛していない女にも、一度関係があると見捨てることなく、面倒を見てあげる心優しい方であるので、紫の上のような身分の高い人たちと同列とはならないが、夕顔様はこの度の入居された花散る里や明石のお方達と同列に扱われたことであろう」
と亡き主人夕顔を思うと、悲しんでも悲しみきれない思いであった。
右近は、せめてあの西の京に残された若君だけでも-その行方も分らないし、ひたすら亡き主人の夕顔が亡くなったことを世に知られないように口を慎み、源氏からも、
「亡き主人のことを今更発表しても始まらないことだから、うっかりとしゃべって私のことを世間に漏らすな」
と、口止めされているので何となく若君のことを聞くことが出来ず、夕顔が亡くなってまもなく若君の乳母の夫が、大宰少弍になって、赴任したので、若君を伴って九州に下ってしまった。あの若君が四歳になる年であった。
夕顔の遺児である女の子供は玉鬘と名乗っていた。四歳の彼女は母親の行方を知りたいと思って、乳母と共にいろいろの神仏に願掛けして歩き、乳母は夜昼となく母を恋したって泣く玉鬘をなだめながら、心当たりの所々を探すのであったが、結局探し当てることは出来なかった。乳母は、
「それではどうしようもない。せめて姫様だけでも、ご主人のお形見としてお世話いたしましょう。しかし筑紫の太宰府にお連れするには遠い道中を旅されるのもおいたわしいこと。やはり、父君にそれとなくお話し申し上げよう」
と夕顔の男であった頭中将に相談しようと思ったが、中将に会う適当な伝もないまま乳母は考えた、
「姫の母君が現在どこに住んで居られるのも知らないで、中将が私に尋ねられたら、何にも知らない私はどう返事をして好いのやら」
乳母は大宰少弍との間に娘が二人あった。玉鬘には乳姉妹の関係になるが、玉鬘と違って既に娘盛りに近い、その娘が、
「中将にはまだ、十分に姫を見慣れていられないのに、幼い姫君を手許に引き取られるのも何となく不安なことでしょう」
もう一人の娘は、
「中将がお知りになりながら、姫君を筑紫へ連れて下ってよいとは、お許しになるはずもありますまい」
などと、乳母は娘達と互いに相談し合って、とてもかわいらしく、子供でありながら既に気品があって美しいご器量の玉鬘を、立派とは言えない設備もない舟に乗せて伏見から漕ぎ出す。乳母は姫君の都落ちがとても哀れに思われた。
玉鬘も子供心に母君のことを忘れず、時々、
「私はこのお舟で母君様の所へ行くの」
と嬉しそうに乳母に尋ねるにつけて、乳母は涙の止まる時がなく、娘たちも姫の気持ちに同情して胸が詰まるが、
「舟旅に涙は不吉だ」
と、泣く一方で、堪えるように制すのであった。
美しい景色をあちこち見ながら、乳母や娘達は主人の夕顔が優しい感情豊かな性質であったので、
「ご主人は気持ちが若い方でしたので、こうした舟旅の美しい景色をお見せ申し上げたかったですね」
「いいえそのようなことを、ご主人がいらっしゃいましたら、私たちは下ることもなかったでしょうに」
と、一行は都の方ばかり思いやられて、寄せては返す波の様子までも羨ましく、一同心細く思っている時に、舟子たちが荒々しい声で、
「物悲しくも、こんな遠く筑紫近くにまで来てしまったよ」
と謡うのを聞くと、とたんに娘二人とも向き合って泣いたのであった。乳母の娘は姉はおもと、妹はあてきと名乗った。おもとは、
舟人も誰を恋ふとか大島の
うらがなしげに声の聞こゆる
(舟人も誰を恋い慕ってか大島の浦に悲しい声が聞こえます)
と詠うと、妹のあてきも、
来し方も行方も知らぬ沖に出でて
あはれいづくに君を恋ふらむ
(来た方角もこれから進む方角も分からない沖に出てああどちらを向いて女君を恋い求めたらよいのでしょう)
遠く都を離れて、二人とも寂しさと不安を隠そうと詠むのであった。
やがて舟は筑紫の宗像の沖、金の岬を過ぎても、
「私たちは夕顔様を忘れない」
などと、二人の姉妹は明けても暮れても口ぐせになって、太宰府に到着してからは、本当に遠くに来てしまったことを思い都恋しと涙を流し、お連れしたこの玉鬘姫君を大切にお世話して、毎日を送っていた。
乳母の夢などに、ごく稀に夕顔が現れる時などもあった。夕顔と同じ姿をした女などが、一緒に夢に現れる、そのような夢を見ると必ずその後に気分が悪くなったりなどしたので、乳母は、
「やはり、ご主人は亡くなられたのだろう」
と諦める気持ちになるのが、乳母としてはとても悲しい思いであった。
作品名:私の読む「源氏物語」ー32-玉鬘 作家名:陽高慈雨