私の読む「源氏物語」ー19-
「貴方のお子が、父上が須磨の流滴の身とはご存知ないのを、父の左大臣が明け暮れにつけて嘆いていますよ」
などと頭中将が源氏に話すと、源氏はたまらなくなってしまい、中将はこの上に話し尽くせるものでないから、かえって少しも子供のことを伝えることができない。
二人は前から仲のいい間柄であったので一晩中一睡もせず、詩文を作って夜を明かした。意気込んできた中将はそれでも都のことを気にして、急いで帰ることにした。それがかえって二人に辛い思いがする。杯を差し上げて、
「酔悲灑涙春盃裏 吟苦支頤暁燭前
酔ひの悲しびを涙そそぐ春の盃の裏」
と、二人で朗誦する。聞いている供の人も涙を流す。そうして二人はしばしの別れを惜しんでいるようであった。
明け方の空に雁が列を作って飛んで行く。それを見て源氏は、
故郷をいづれの春か行きて見む
うらやましきは帰る雁がね
(ふる里をいつの春にか見ることができるだろう、羨ましいのは今都の方へ帰って行く雁だ)
この歌を聴いて中将はまったく立ち去る気を無くして、
あかなくに雁の常世を立ち別れ
花の都に道や惑はむ
(まだ飽きないまま雁は常世を立ち去りますが、花の都への道にも惑いそうです)
中将は都から持参した土産を源氏に渡した。源氏は今回の中将の有り難い訪問のお礼にと思って、黒駒馬を差し上げた。
「変な物を差し上げるようですが、『我が帰る道の黒駒心あらば君は来ずともおのれ嘶け』と拾遺集にあります、この地の風にが吹いたならば、きっとこの馬は嘶くでしょうから」
と贈る理由を話す。世にも珍しい名馬の様である。
「これを吹くたびにわたしのことを思い出してください」
と言って、中将はたいそう立派な笛で高名な名品を贈る、この二人の行動を誰が咎め立て出来よう。
日がだんだん高くなり気ぜわしく振り返り振り返りしながら中将が去っていくのを、源氏は見送りる様子は、よそから見るとなまじ会わなければ良かったと思われるくら源氏は淋しそうにしていた。去り際に中将が源氏に、
「この次は何時お目にかからせていただけますか」
源氏は、
雲近く飛び交ふ鶴も空に見よ
我は春日の曇りなき身ぞ
(雲の近くを飛びかっている鶴よ、雲上人よ、はっきりと照覧あれ、わたしは春の日のようにいささかも疚しいところのない身です)
私は一方では許される日を当てにしちますが、過去に私のように帝のお咎めを受けた者が、いかに賢人であっても満足に都に帰還して再び世に出ることは難しかったのだから、私は都の地を再び見ようなどとは思っていません」
中将宰相は、
たづかなき雲居にひとり音をぞ鳴く
翼並べし友を恋ひつつ
(頼りない雲居にわたしは独りで泣いています、かつて共に翼を並べた君を恋い慕いながら)
失礼なまで親しくさせていただいたころのことを、もったいないことだと後悔される事が多いのです」
中将は源氏の許を去っていった。その後源氏はますます悲しく思いに沈んでしまった。
三月一日は巳の日であった。
「今日という日は、ご心労のある方は、御禊をなさるのがよいという日でございます」
と、物知り顔の供の者が源氏に言うので、ついでに海辺も見ようと出かけていった。ひどく簡単に幕を張り巡らして、この国に丁度来ていた陰陽師を呼んで、祓いを行った。舟にたいそうな人形を乗せそれに息を掛けて源氏は自分の悪霊を吹き込みそうして沖へ流すのを見るにつけても、我が身の代わりに沖へ行く人形を、本当に自分であると思いこむように、
知らざりし大海の原に流れ来て
ひとかたにやはものは悲しき
(見も知らなかった大海原に流れきて、人形に一方ならず悲しく思われることよ)
と詠んで、じっと沖に流れて行く舟を見続けている源氏の様子、広く明るい海辺に出て言いようのないほど素晴らしく見えた。
海も凪いでいて、果てしもなく広がる海原、そのなかで、源氏は過去のこと将来のことが次々と胸に浮かんで、
八百よろづ神もあはれと思ふらむ
犯せる罪のそれとなければ
(八百万の神々もわたしを哀れんでくださるでしょう、これといって犯した罪はないのだから)
と詠うと、急に風が吹き出し空はまっ暗闇になった。お祓いの行事がまだ終わっていないので幕の中は騒然となった。俄雨が降りだし笠をかぶるひまもなく、肘を頭上にかざして袖を笠のかわりにするという肱笠雨が降ってきて、大変な天気になったので皆が帰ろうとするが、あまりの雨で笠も手に取ることができない。こんな天気になるとは誰も予想しなかったので、その辺の道具類が吹き飛ばされる、またとない大風である。海は波がひどく荒々しく立ってきて、源氏一行の者の足も宙に浮いた感じである。海の表面は、大きな掛け布団を広げたように一面きらきら光って、その上に雷が鳴り響いた。雷が落ちてきそうな気がして恐ろしかったが、やっとのことで、一行は家にたどり着いた。、
「こんなこと初めての事よ」
「大風が吹くこともあるが、前触れがあって吹くものだ。本当に思いもしなかった珍しいことだ」
と一同困惑しているが、外は依然として雨は止まず雷は鳴り、強い雨脚の当たる所は地面を突き通してしまいそうに音を立てて雨が落ちてくる。「こうして世界は滅びてしまうのだろうか」と、供の者達は心細く思いうろたえているが、源氏は落ち着いて経を誦していた。
日が暮れたので、雷は少し鳴り止んだが、風は、夜も吹く。
「たくさん立てた願の力なのでしょう」
「もうしばらくこのままだったら、波に呑みこまれてしまうところだった」
「高潮というものに、何を取る余裕もなく人の命が海中へ持って行かれるとは聞いているが、まこと、このようなことは、まだ見たこともない」
と供の仲間が言い合っていた。
明け方には喧しかった者達もみな眠ってしまっていた。源氏も少しまどろむと、誰ともわからない者が来て、
「どうして、宮中からお召しがあるのに参らないのか」
と言って、手探りで源氏を捜しているようなところで、目が覚めて、「さては海龍王が、美しいものがひどく好きなもので、この俺を魅入ったのであったな」と思うとひどく気味が悪く、この須磨の住まいが耐えられなく源氏は思うのであった。 (須磨終わり)
作品名:私の読む「源氏物語」ー19- 作家名:陽高慈雨