私の読む「源氏物語」- 13-
と、源氏は葵を慰めると、葵は、
「いえ、そうではありません。身体がとても苦しいので、少し祈祷を休めて下さいと申し上げようと思って。このように参上しようとは私、まったく思もってもみなかったのですが、あまりに酷く物思いすると、魂は、このように抜け出して憎い人に取り付くものなのですね」
と、親しげに言う、源氏は何となく御息所の声のように思えた、
嘆きわび空に乱るるわが魂を
結びとどめよしたがへのつま
(悲しみに堪えかねて抜け出たわたしの魂を、結び留めてください、着物の裾の両端を結んで)
と詠う声、雰囲気、葵ではなく、変わっていた。源氏は「たいそう変わった声になったものだ」と、考えてみるとやはりあの御息所その人の声なのであった。今まで、何かと噂をするのを、下々の者たちが言い合っていることを、聞くに耐えなかったのであったが、そのようなことがあってたまるかと、無視していたが、今目の前にまざまざと、葵の口を借りて御息所の声を聞くと、源氏は
「本当に、このようなこともあるのだ」
と、気味悪くなった。
「ああ、嫌な」
と思わずにはいられなく、源氏は、
「そのように貴女はおっしゃるが、誰とも分からぬ。はっきりと名乗りなさい」
と言う。
まったく御息所そっくりの様子なので、あきれはてるという言い方は通用しないような現象であった。葵の周りに女房たちが寄ってくるのも、気が気ではなかった。
葵の譫言のようなしゃべりが少し静かにななってきたので、興奮状態が一時収まったのかと、葵の側に付ききりで看病をしている母宮がお薬湯を持って来させになった。それを飲まそうとお産の係りで経験が豊かな女房が葵を抱き起こした、すると置きようと力を入れたことが原因か、間もなく出産が始まった。それを見て母宮、付き添った女房達、嬉しいことこの上もないが、祈祷によって憑坐に移された物の怪どもが、悔しがり大騷ぎする様子、とても騒々しくて、一同は葵の後産の事がまた、とても心配になってきた。
数え切れないほどの願文どもを立てさせなさったからか、無事に後産も終わった。祈祷に携わった山の天台宗の座主、名の知れた尊い僧どもが、得意顔に汗を拭いながら、急いで退出した。
大勢の人たちが心を尽くした幾日もの看病の後の緊張が、少し解けて、「今はもう大丈夫」と安堵している。御修法などは、再び始めさせるが、差し当たっては、楽しくあり、おめでたいお世話に、皆ほっとした。
源氏の父君桐壺院をお始め、親王方、上達部が、残らず誕生祝いの贈り物を贈ってきた。屋敷の一同は珍しく立派なのを、誕生後の三日・五日・七日・九日目の夜に催す儀式に見て大騷ぎする。葵の子供は男の子であったので、そのお祝いの儀式は盛大で立派である。
六条の御息所は、このような葵の出産を聞いて、おもしろくない。「この前には、とても危ないとの噂を聞いていたのに、安産であったとは」と、思っていた。
不思議な経験であった、自分が自分でないような気分になったことを思い辿って、周りの自分のものを見てみると、着物なども、すっかり芥子の香が滲み着いている奇妙さに、髪を洗い、着物を着替えなどして、試してみるが、依然として前と同じように芥子の臭いがするのである。御息所は自分の身体が疎ましく思わずにはいられない。またこのことを大げさに、他人が噂し推量するだろうと、誰にも相談出来ない事柄なので、自分の心一つに収めて思い悩んでいると、ますます気が変になって行くようであった。
源氏大将は、気持ちが少し落ち着き、何とも表現のしようがないあの物の怪となった御息所との問わず語りを、何度も不愉快に思い出して、「御息所とは逢うことなく日数が経ってしまった。彼女も気の毒だし、またこんな時に直接逢っては、どうあの人は考えるだろうか。きっと不愉快に思うだろうし、あの人のためにも気の毒だろ」と、いろいろと考えて、お手紙だけを御息所の許にさしあげた。
ひどく重い病を患った葵のことを看病に当たった女房達が、病後が心配で、気を緩めずに、葵の容態を見つめているので、当然のこと、源氏は好きな女の所への忍び歩きをしない。葵が依然としてひどく悩ましそうにしているので、源氏は普段のように彼女の傍に行って逢おうとはしない。生まれた若君がとてもかわいらしいので、今から、特別に育てようとしている。その姿が並大抵でなく、やっと自分の願いがかなったと、葵の父の左大臣も嬉しく幸せに思うのであるが、ただ、娘の葵が気分がすっかり回復しないのが、心配である、「あれほど重く患った後だから」と思い、それほど心配ばかりしていられようかと思っていた。
若君のお目もとのかわいらしさなどが、藤壺の産んだ春宮にそっくりなのを見て源氏はまっ先に、藤壺が恋しく思い出すのである。合いたい気分に堪えがたく、内裏へ参内しようとして、
「宮中へ長いこと参内しておりませんので、気がかりゆえに、今日初めて外出しますが、葵ともう少し近いところで話がしたいものです。今のように離れたところからではあまりにも他人行儀なようですから」
と葵付きの女房に少し恨みがましく言うと、
「仰せのとおりですわ、お体裁をつくっていらっしゃる御仲でもないのですから、ひどく病でおやつれになっていらっしゃるとは申しても、几帳を隔ててお会いになる間柄ではございませんわ」
と言って、葵の臥せっている所に、席を設けてくれたので、几帳の中に入って久しぶりに近くで話をする。
源氏の話に葵は返事を時々するが、やはり病後のことでしかも出産という大事をしたあとでとても弱々しそうである。けれど、もう助からないと思った時の様子を源氏は思い出すと、こうして話が出来るのが夢のような気分で、危なかった時の事などを話す中で、あの葵がすっかり息も止まったかのようになったのが、急に持ち直して何かくどくどと言ったことなどを、思い出し御息所の生霊が葵に乗り移ったことが不愉快に思われるので、
「いや、お話したいことはとてもたくさんあるが、貴女はまだとても大儀そうな気分でいるようですからまたにしましょう」
と源氏は言って、傍らの湯飲みを取って
「お薬湯をお飲みなさい」
と、お世話をするのを、いつの間に看病の仕方をお覚えになったのだろう、と女房たちは感心していた。
美しい女の人が、病でたいそう衰弱して、生死の境を彷徨っているような感じで臥せっている様子は、見てとてもいじらしげに痛々しい。髪は一筋の乱れ毛もなく、さらさらと枕の辺りに広がり掛かっている、滅多に見られない素晴らしい、「私は何年も、何を物足りないと思っていたのだろう」と、源氏は不思議なまでにじっと葵の寝姿に目を凝らさずにはいられなかった。
「桐壺院などに参って、すぐに下がって来ます。このように、何の障りなく貴女と話が出来るのなら、嬉しいのですが、母宮がぴったりと貴女に付いていらっしゃるので、失礼ではないかと遠慮して来ましたのも辛いが、貴女はやはりだんだんと気を強くもって、いつものご座所に行くようにしてください。あまり幼く甘えていると、一方では、いつまでも身体が回復しませんよ」
作品名:私の読む「源氏物語」- 13- 作家名:陽高慈雨