私の読む「源氏物語」- 13-
葵
「花宴」の巻から二年後、源氏二十二歳。その間に、「紅葉賀」の巻に予告した御譲位が桐壺帝から朱雀帝に行われ、新帝に源氏の兄で弘徽殿女御の子の朱雀院が即位した。弘徽殿の女御の後見である右大臣家一派が権力を持った時代が徐々に近づいてきていた。源氏は宰相中将から大将に昇進した。
しかし源氏は何にも興味が持てなくなっていた。官位の昇進した窮屈さもあって、忍び歩きももう軽々しくできないのである。それまで源氏が訪問していた隠し女の所では源氏の姿が見えないので嘆きを重ねている、そんな女達の恨みの報いなのか、源氏自身は中宮藤壺の冷淡さを歎く苦しい涙ばかりを流していた。
位を譲った帝は、以前にも増して、一般の夫婦のように藤壺の側に一日中おいであそばすのを、前の弘徽殿の女御である新皇太后はねたましく思召すのか、院へはおいでにならずに息子の今の帝の御所にばかり行っているので、藤壺に向かって何やかやと難癖を付けていた相手が現れないので藤壺中宮は気楽に見えた。
桐壺の帝はおりおり音楽会などを世間の評判になるほど派手に催して、藤壺との生活はきわめて幸福に満ちたものであった。
ただ心配なのは内裏にいる藤壺の産んだ子供で東宮となった藤壺と源氏との訳ありの子のことだけであった。後見をする人のないことを桐壺帝は心配になって、源氏へそれをお命じになった。源氏は、藤壺と自分の子であるということをやましく思いながらもうれしかった。
先の四帖に登場した「六条の当たりの源氏の愛人」は六条御息所と言って桐壺帝の弟で亡くなった春宮の妻であった。その六条の御息所の生んだ前皇太子の忘れ形見の秋好姫が斎宮に選ばれた。七歳も年上であるのに源氏が十七歳の時からの愛人であった六条御息所は最近源氏の通いが少なくたよりなさを感じていた。そこで斎宮になった娘がまだ若いので、それを理由として自分も伊勢へ下ってしまおうかと、娘の斎宮本決まりの時から思っていた。この噂を桐壺院がお聞きになって、
げんじに、
「私の亡き弟の東宮が非常に愛していた人を、おまえが言い寄って、そうして最近は通わないそうではないか、そんなお前の扱うのを見て、私はかわいそうでならない。斎宮になる姫を姪でなく自分の内親王と同じように思っているのだから、お前も御息所を大事に扱うべきである。多情な心から、あの女に熱くなり、またこの女に冷たくなったりしてみせては世間がおまえを批難する」
などと、父の桐壺院の機嫌が悪いので、源氏は自分でも、院の言われるとおりだと思わずにはいられないので、恐縮して控えている。
さらに桐壺の院は、
「相手のことをよく考えてやって、どの夫人をも公平に愛して、女の恨みを買わないようにするがいいよ」
と源氏に忠告した。
源氏は帝の小言を聞きながら、中宮藤壺を恋する源氏の心が、こんなふうに帝の耳へはいったらどうしようと恐ろしくなって、かしこまりながら桐壺の院を退出したのである。 父までも六条御息所と源氏の関係を認めての忠告である、源氏は御息所の世間への名誉のためにも、また外に知られてしまっている御息所の後見は自分である、ということのためにも軽率なことはできないと思って、以前よりもいっそう御息所のことを注意して色々と援助する傾向にはなっているが、しかし源氏はまだ公然に妻である待遇はしないのである。
御息所も、あまりの年上であることで恥ずかしく思いになって、強いて源氏に正式な妻として扱うようには言い出さない。源氏はそれを好いことにして、父の院まで知っているにもかかわらず、また世間の人も知らない者がいなくなってしまったのを、一向に二人の間を先に進めようとしない。この有様を御息所は、ひどく恨みそして嘆くのであった。。
このようなことを聞いた、次の巻の「帚木」に登場する桃園式部卿宮の姫君、この姫に源氏は朝顔に和歌を結んで時々文を贈っている、いつもの女漁りの内の一人である、その姫は、
「何としても、この御息所の二の舞は演じまい」
と固く決心して、以前は源氏の甘い文に、ちょっとした返事などをしていたのだが、それもぷっつりと止めてしまった。そんな扱いを受けても姫は源氏に、露骨に反感を見せたり、軽蔑的な態度をとったりすることをしないのを源氏はうれしく思った。「やはり格別である」と姫の心を考えずに思い続けていた。
一方左大臣邸では、葵の上がこのように当てにならない源氏を、気にくわないと思いながら、源氏のあまり大っぴらな女漁りが、もう言っても始まらないと思ってであろうか、色々と恨み言を言い続ける事はしなくなった。それに、源氏との仲が余りよくないし滅多に葵の許に帰ることがないにもかかわらず、僅かな共寝にもお互い身体を求め合ったせいか長い間妊娠の模様もなかったのであるが、ついに葵は妊娠のつわりに悩まされていた。それで何となく心細く思っている。葵の妊娠を知った源氏は珍しく葵を愛しく思うのである。
誰もが葵の妊娠を嬉しく思う一方で、源氏の数多くの女漁りの行動から、恨みを持つ女から不吉なことがあるのではと思いになって、さまざまな御物忌みをするのである。このような時、源氏はますます心の余裕がなくなって、忘れたというのではないが、外の女へ自然とご無沙汰が多くなったようである。
その頃伊勢の斎院がやめることになり、兼ねてから斎院に、三年の潔斎を終えた、桐壺院の弟で先の春宮と六条御息所の間にできた三の姫が決まり。この姫を桐壺院も弘徽殿の女御も大変愛している内親王であるから、神の奉仕者として常人と違った生活へはいることを親心に苦しく思っていたが、ほかに適当な内親王が居られないのである。
斎宮就任の最初の行事である二度目御禊の日、斎宮は、祭に先立ち賀茂川で御禊を行い、祭の当日は上下の賀茂社に参拝し、以後紫野の斎院に入る。
斎宮護衛のため、上達部など大納言一名、中納言一名、参議二名の計四名が供奉する、という規定の人数であるが、人気が高く、美しく凛々しい者ばかりが選ばれ、それぞれが、下襲の色、表袴の紋様、馬の鞍まですべて揃いの支度であった。帝から特別の宣旨が下って、源氏はこの時、参議兼大将である。参議の一人として供奉することになった。 滅多に見ることが出来ない行事であるから、かねてから評判が立ち、見物のため車を用意して一般の人たちは心待ちしているのであった。
一条大路は、隙間なく、恐ろしいくらいざわめいている。あちこちにできた桟敷は、拵えの趣味のよさを競っていて、御簾の下からわざと見物人に見せようと女房達の襲の袖口にも特色がそれぞれあった。またそれを見るのが集まった男女達の楽しみでもあった。
祭りも何年に一回しかないような大きな祭りであるので、見物する価値は十分にあった。左大臣家にいる葵夫人はそうした所へ出かけるようなことはあまり好まない上に、妊娠のつわりという生理的にも辛い時であったから、見物のことを、考えてもいなかったが若い女房たちが、
「花宴」の巻から二年後、源氏二十二歳。その間に、「紅葉賀」の巻に予告した御譲位が桐壺帝から朱雀帝に行われ、新帝に源氏の兄で弘徽殿女御の子の朱雀院が即位した。弘徽殿の女御の後見である右大臣家一派が権力を持った時代が徐々に近づいてきていた。源氏は宰相中将から大将に昇進した。
しかし源氏は何にも興味が持てなくなっていた。官位の昇進した窮屈さもあって、忍び歩きももう軽々しくできないのである。それまで源氏が訪問していた隠し女の所では源氏の姿が見えないので嘆きを重ねている、そんな女達の恨みの報いなのか、源氏自身は中宮藤壺の冷淡さを歎く苦しい涙ばかりを流していた。
位を譲った帝は、以前にも増して、一般の夫婦のように藤壺の側に一日中おいであそばすのを、前の弘徽殿の女御である新皇太后はねたましく思召すのか、院へはおいでにならずに息子の今の帝の御所にばかり行っているので、藤壺に向かって何やかやと難癖を付けていた相手が現れないので藤壺中宮は気楽に見えた。
桐壺の帝はおりおり音楽会などを世間の評判になるほど派手に催して、藤壺との生活はきわめて幸福に満ちたものであった。
ただ心配なのは内裏にいる藤壺の産んだ子供で東宮となった藤壺と源氏との訳ありの子のことだけであった。後見をする人のないことを桐壺帝は心配になって、源氏へそれをお命じになった。源氏は、藤壺と自分の子であるということをやましく思いながらもうれしかった。
先の四帖に登場した「六条の当たりの源氏の愛人」は六条御息所と言って桐壺帝の弟で亡くなった春宮の妻であった。その六条の御息所の生んだ前皇太子の忘れ形見の秋好姫が斎宮に選ばれた。七歳も年上であるのに源氏が十七歳の時からの愛人であった六条御息所は最近源氏の通いが少なくたよりなさを感じていた。そこで斎宮になった娘がまだ若いので、それを理由として自分も伊勢へ下ってしまおうかと、娘の斎宮本決まりの時から思っていた。この噂を桐壺院がお聞きになって、
げんじに、
「私の亡き弟の東宮が非常に愛していた人を、おまえが言い寄って、そうして最近は通わないそうではないか、そんなお前の扱うのを見て、私はかわいそうでならない。斎宮になる姫を姪でなく自分の内親王と同じように思っているのだから、お前も御息所を大事に扱うべきである。多情な心から、あの女に熱くなり、またこの女に冷たくなったりしてみせては世間がおまえを批難する」
などと、父の桐壺院の機嫌が悪いので、源氏は自分でも、院の言われるとおりだと思わずにはいられないので、恐縮して控えている。
さらに桐壺の院は、
「相手のことをよく考えてやって、どの夫人をも公平に愛して、女の恨みを買わないようにするがいいよ」
と源氏に忠告した。
源氏は帝の小言を聞きながら、中宮藤壺を恋する源氏の心が、こんなふうに帝の耳へはいったらどうしようと恐ろしくなって、かしこまりながら桐壺の院を退出したのである。 父までも六条御息所と源氏の関係を認めての忠告である、源氏は御息所の世間への名誉のためにも、また外に知られてしまっている御息所の後見は自分である、ということのためにも軽率なことはできないと思って、以前よりもいっそう御息所のことを注意して色々と援助する傾向にはなっているが、しかし源氏はまだ公然に妻である待遇はしないのである。
御息所も、あまりの年上であることで恥ずかしく思いになって、強いて源氏に正式な妻として扱うようには言い出さない。源氏はそれを好いことにして、父の院まで知っているにもかかわらず、また世間の人も知らない者がいなくなってしまったのを、一向に二人の間を先に進めようとしない。この有様を御息所は、ひどく恨みそして嘆くのであった。。
このようなことを聞いた、次の巻の「帚木」に登場する桃園式部卿宮の姫君、この姫に源氏は朝顔に和歌を結んで時々文を贈っている、いつもの女漁りの内の一人である、その姫は、
「何としても、この御息所の二の舞は演じまい」
と固く決心して、以前は源氏の甘い文に、ちょっとした返事などをしていたのだが、それもぷっつりと止めてしまった。そんな扱いを受けても姫は源氏に、露骨に反感を見せたり、軽蔑的な態度をとったりすることをしないのを源氏はうれしく思った。「やはり格別である」と姫の心を考えずに思い続けていた。
一方左大臣邸では、葵の上がこのように当てにならない源氏を、気にくわないと思いながら、源氏のあまり大っぴらな女漁りが、もう言っても始まらないと思ってであろうか、色々と恨み言を言い続ける事はしなくなった。それに、源氏との仲が余りよくないし滅多に葵の許に帰ることがないにもかかわらず、僅かな共寝にもお互い身体を求め合ったせいか長い間妊娠の模様もなかったのであるが、ついに葵は妊娠のつわりに悩まされていた。それで何となく心細く思っている。葵の妊娠を知った源氏は珍しく葵を愛しく思うのである。
誰もが葵の妊娠を嬉しく思う一方で、源氏の数多くの女漁りの行動から、恨みを持つ女から不吉なことがあるのではと思いになって、さまざまな御物忌みをするのである。このような時、源氏はますます心の余裕がなくなって、忘れたというのではないが、外の女へ自然とご無沙汰が多くなったようである。
その頃伊勢の斎院がやめることになり、兼ねてから斎院に、三年の潔斎を終えた、桐壺院の弟で先の春宮と六条御息所の間にできた三の姫が決まり。この姫を桐壺院も弘徽殿の女御も大変愛している内親王であるから、神の奉仕者として常人と違った生活へはいることを親心に苦しく思っていたが、ほかに適当な内親王が居られないのである。
斎宮就任の最初の行事である二度目御禊の日、斎宮は、祭に先立ち賀茂川で御禊を行い、祭の当日は上下の賀茂社に参拝し、以後紫野の斎院に入る。
斎宮護衛のため、上達部など大納言一名、中納言一名、参議二名の計四名が供奉する、という規定の人数であるが、人気が高く、美しく凛々しい者ばかりが選ばれ、それぞれが、下襲の色、表袴の紋様、馬の鞍まですべて揃いの支度であった。帝から特別の宣旨が下って、源氏はこの時、参議兼大将である。参議の一人として供奉することになった。 滅多に見ることが出来ない行事であるから、かねてから評判が立ち、見物のため車を用意して一般の人たちは心待ちしているのであった。
一条大路は、隙間なく、恐ろしいくらいざわめいている。あちこちにできた桟敷は、拵えの趣味のよさを競っていて、御簾の下からわざと見物人に見せようと女房達の襲の袖口にも特色がそれぞれあった。またそれを見るのが集まった男女達の楽しみでもあった。
祭りも何年に一回しかないような大きな祭りであるので、見物する価値は十分にあった。左大臣家にいる葵夫人はそうした所へ出かけるようなことはあまり好まない上に、妊娠のつわりという生理的にも辛い時であったから、見物のことを、考えてもいなかったが若い女房たちが、
作品名:私の読む「源氏物語」- 13- 作家名:陽高慈雨