私の読む「源氏物語」- 11-
紅葉賀
「若紫」「末摘花」の巻で述べたように、源氏の父君、桐壺帝の朱雀院行幸は、神無月、十月の十日過ぎである。恒例の朱雀院行幸とは違って。朱雀院に住まいする帝の父君上皇(一院)五十の算賀の行幸である。そのため特別の楽や舞が予定されていた。後宮の人々はそれが自分たちの住む御所での催しでなく朱雀院であるので観覧ができないことを残念に思っていた。帝も、最愛の女御藤壷が妊娠のため見られないのを、申し訳なく思い、総練習の試楽を御所で自分と藤壺の前で、実施するように命ぜられた。
その試楽で源氏中将は、二人舞である青海破を舞った。この舞は、舞人は鳥甲に、青海波と千鳥の模様をつけた常装束を着用し、また、千鳥の螺鈿の太刀を帯びる。舞楽中最も華麗優雅な名曲である。源氏の相手方の舞人は妻葵の兄頭中将。二人とも容貌、性格ともに人よりは優れているが、二人立ち並ぶと、やはり源氏が全てに勝り、満開の桜の隣に不幸にも咲いた深山桜の木という譬えが当たりである。
日が暮れる前一瞬さっと明るくなった日光が差し込んでいる時に、それに合わせるように楽の声が高まり、観衆の興味が一心に集まった。同じ舞ながらも面のふり、足の踏み方などのみごとさ、ほかでも舞う青海波とは全然別な感じであった。舞ながら詠う声は、観覧する女房達に、
「これが、 仏教で雪山または極楽にいるという妙なる鳴き声を持つ鳥、迦陵頻伽というものだ、その姿は、人の頭・鳥の身体であるという、そのお声だろう」
と、聞こえた。美しくしみじみと心打つので、帝は、涙を拭い、上達部、親王たちも、皆落涙した。朗唱が終わって、袖をさっと直すと、待ち構えていた楽の音が賑やかに奏され、源氏の顔の色が一段と映えて、常よりも光り輝いて見えた。
弘徽殿の女御は、源氏のこのような立派に見えるのが、面白く思わず、
「神様があの美貌に見入ってどうかなさらないかと思われるね、気味の悪い」
こんなことを言うのを、若い女房などは情けない思いで聞いていた。
藤壷は踊る源氏を見て、
「あの夜のような大それたことで腹の中に子を宿し、その心の動揺がなかったならば、いっそう素晴らしく見えたろうに」と思いながらも、夢のような心地で源氏の舞踊を見ていた。
藤壺は、この夜はそのまま帝のお側で休むことになっていた。帝と共に清涼殿に戻り、二人で床に臥すと、帝が
「今日の試楽は、青海波が最高に良かったね。貴女はどう御覧になりましたか」
と、藤壺の乳房に軽く手を触れながら優しく尋ねる、藤壺は気がとがめるので、答えにくく、
「格別でございました」
とだけ返事をして自分の手を乳房の上にある帝の手に重ねた。帝は更に続けて、
「相手役の頭中将も、悪くはなかったね。舞の振り、手捌きは、良家の子弟は格別であるな。世間で名声を博している舞方の男どもも、確かに大した技を持っているが、育ちから来る優美さを、表すことができない。試楽の日に、こんなに十分な舞楽を見てしまったので、朱雀院の紅葉の木陰でまた見るのは、もうつまらなく思うが、藤壺に見せたいとの気持ちで、念入りに催させたのだよ」
と藤壺に語りかけながら優しく抱きしめる、藤壺もそのような帝に身体を全て預けて二人は腹の子を気遣いながらも歓喜の世界に入っていくのであった。
翌朝、源氏中将は藤壺の女御に、
「昨日の私の青海波をどのように御覧になりましたでしょうか。私は貴女のことを頭に浮かべ、何とも言えないつらい気持ちで踊っていました、
もの思ふに立ち舞ふべくも
あらぬ身の
袖うち振りし心知りきや
(つらい気持ちのまま立派に舞うことなどはとてもできそうもないわが身が、袖を振って貴女への愛情を舞った気持ちはお分りいただけたでしょうか)
恐れ多いことですが」
と源氏からの文に、藤壺は返事を書く。目を奪うほど晴れやかであった舞う源氏の姿、その美しさ、無視することが出来ずに思い出しながら筆を取る、
唐人の袖振ることは遠けれど
立ち居につけてあはれとは見き
(唐の人が袖振って舞ったことは遠い昔のことですが、その舞いの動きはしみじみと拝見いたしました)
並々のことには」
と藤壺の文にあるのを、源氏はこの上なく珍しく読み、「このような青海波のことから、唐国の朝廷まで思いをはせられるとは、もう十分に后らしい見識を備えていられる」
と源氏は微笑して、手紙を仏の経巻のように拡げて見入っていた。
十月の十日過ぎに朱雀院行幸があった、親王たちなど、宮廷を挙げて一人残らず供奉した。春宮も出席した。
催し物は恒例に従って、楽人を乗せた数隻の舟が池の中を漕ぎ廻って、唐楽、高麗楽と、演奏し、舞も楽に従って、幾種類も上演された。楽の声、鼓の音が四方に響き渡った。
先日御所で行われた試楽の時、舞をする夕映えに照らされた源氏の姿が余りにも優美に見えて、これは通常のものではない仏道の妨げとなる魔障の心をそそるものだと、帝は心配になって、寺々で源氏に魔性が取り付かないように経を読ませになったりしたという。このことを聞いた人たちは、親子の情はそうあることと思ったが、東宮の母弘徽殿女御だけは、帝のあまり大げさな気の使いようと、ねたんでいた。
青海波の舞楽の時、庭に立ち並んで吹奏する楽人を垣代という。垣のように舞人を取り囲むからである。垣代には殿上役人からも、そうでない地下役人からもすぐれた技倆と認められている人たちだけが選り整えられた。
参議兼左衛門督一人と参議兼右衛門督一人の計二名が左の唐楽と右の高麗楽の指揮をする。舞の師匠で、世間で一流の人たちを、今日の舞い人に選定された各自が、それぞれ自宅に招いて、家に引き籠もって練習した。
木高い紅葉の下に、四十人の垣代が並び立ち、何とも言い表しようもない優雅な笛の音に響き合っている松風、本当の深山颪のように吹き乱れ、色とりどりに散り乱れる木の葉の中から、青海波舞が光り輝いて見える様子、体中身震いが走るような何とも恐ろしいまでに見える。激しい舞に源氏の頭に挿した紅葉がたいそう散って枝ばかりになり、源氏の上司の左大将がそばへ寄って庭前の菊を折ってさし変えた。
日暮れ前になって、空もこの絶妙優雅な舞いに感動のあまり心を動かされたようでさっと時雨がきた。
源氏のそうした非常に美しい姿で、色とりどりの菊を冠に插して、今日は又とない秘術を尽くした。舞楽の退場の際に舞う入綾の舞の時には、観衆はぞくっと背筋に寒気が走り、この世の舞とは思われない。舞が分るはずのない下人どもで、木の下、岩の陰、築山の木の葉に隠れて見ている者も、少し物のあわれを理解できる者は涙を流して観覧していた。
帝と承香殿の女御の産んだ第四皇子は、まだ童姿で、四人舞で常装束を用い、諸肌をぬぐ、秋風楽を可憐に舞ったのが、源氏の青海波に次での人気であった。この二つの舞が突出して上出来であったので、他の事にはあまり観衆の興味も移らず、かえって興ざましであったようである。
「若紫」「末摘花」の巻で述べたように、源氏の父君、桐壺帝の朱雀院行幸は、神無月、十月の十日過ぎである。恒例の朱雀院行幸とは違って。朱雀院に住まいする帝の父君上皇(一院)五十の算賀の行幸である。そのため特別の楽や舞が予定されていた。後宮の人々はそれが自分たちの住む御所での催しでなく朱雀院であるので観覧ができないことを残念に思っていた。帝も、最愛の女御藤壷が妊娠のため見られないのを、申し訳なく思い、総練習の試楽を御所で自分と藤壺の前で、実施するように命ぜられた。
その試楽で源氏中将は、二人舞である青海破を舞った。この舞は、舞人は鳥甲に、青海波と千鳥の模様をつけた常装束を着用し、また、千鳥の螺鈿の太刀を帯びる。舞楽中最も華麗優雅な名曲である。源氏の相手方の舞人は妻葵の兄頭中将。二人とも容貌、性格ともに人よりは優れているが、二人立ち並ぶと、やはり源氏が全てに勝り、満開の桜の隣に不幸にも咲いた深山桜の木という譬えが当たりである。
日が暮れる前一瞬さっと明るくなった日光が差し込んでいる時に、それに合わせるように楽の声が高まり、観衆の興味が一心に集まった。同じ舞ながらも面のふり、足の踏み方などのみごとさ、ほかでも舞う青海波とは全然別な感じであった。舞ながら詠う声は、観覧する女房達に、
「これが、 仏教で雪山または極楽にいるという妙なる鳴き声を持つ鳥、迦陵頻伽というものだ、その姿は、人の頭・鳥の身体であるという、そのお声だろう」
と、聞こえた。美しくしみじみと心打つので、帝は、涙を拭い、上達部、親王たちも、皆落涙した。朗唱が終わって、袖をさっと直すと、待ち構えていた楽の音が賑やかに奏され、源氏の顔の色が一段と映えて、常よりも光り輝いて見えた。
弘徽殿の女御は、源氏のこのような立派に見えるのが、面白く思わず、
「神様があの美貌に見入ってどうかなさらないかと思われるね、気味の悪い」
こんなことを言うのを、若い女房などは情けない思いで聞いていた。
藤壷は踊る源氏を見て、
「あの夜のような大それたことで腹の中に子を宿し、その心の動揺がなかったならば、いっそう素晴らしく見えたろうに」と思いながらも、夢のような心地で源氏の舞踊を見ていた。
藤壺は、この夜はそのまま帝のお側で休むことになっていた。帝と共に清涼殿に戻り、二人で床に臥すと、帝が
「今日の試楽は、青海波が最高に良かったね。貴女はどう御覧になりましたか」
と、藤壺の乳房に軽く手を触れながら優しく尋ねる、藤壺は気がとがめるので、答えにくく、
「格別でございました」
とだけ返事をして自分の手を乳房の上にある帝の手に重ねた。帝は更に続けて、
「相手役の頭中将も、悪くはなかったね。舞の振り、手捌きは、良家の子弟は格別であるな。世間で名声を博している舞方の男どもも、確かに大した技を持っているが、育ちから来る優美さを、表すことができない。試楽の日に、こんなに十分な舞楽を見てしまったので、朱雀院の紅葉の木陰でまた見るのは、もうつまらなく思うが、藤壺に見せたいとの気持ちで、念入りに催させたのだよ」
と藤壺に語りかけながら優しく抱きしめる、藤壺もそのような帝に身体を全て預けて二人は腹の子を気遣いながらも歓喜の世界に入っていくのであった。
翌朝、源氏中将は藤壺の女御に、
「昨日の私の青海波をどのように御覧になりましたでしょうか。私は貴女のことを頭に浮かべ、何とも言えないつらい気持ちで踊っていました、
もの思ふに立ち舞ふべくも
あらぬ身の
袖うち振りし心知りきや
(つらい気持ちのまま立派に舞うことなどはとてもできそうもないわが身が、袖を振って貴女への愛情を舞った気持ちはお分りいただけたでしょうか)
恐れ多いことですが」
と源氏からの文に、藤壺は返事を書く。目を奪うほど晴れやかであった舞う源氏の姿、その美しさ、無視することが出来ずに思い出しながら筆を取る、
唐人の袖振ることは遠けれど
立ち居につけてあはれとは見き
(唐の人が袖振って舞ったことは遠い昔のことですが、その舞いの動きはしみじみと拝見いたしました)
並々のことには」
と藤壺の文にあるのを、源氏はこの上なく珍しく読み、「このような青海波のことから、唐国の朝廷まで思いをはせられるとは、もう十分に后らしい見識を備えていられる」
と源氏は微笑して、手紙を仏の経巻のように拡げて見入っていた。
十月の十日過ぎに朱雀院行幸があった、親王たちなど、宮廷を挙げて一人残らず供奉した。春宮も出席した。
催し物は恒例に従って、楽人を乗せた数隻の舟が池の中を漕ぎ廻って、唐楽、高麗楽と、演奏し、舞も楽に従って、幾種類も上演された。楽の声、鼓の音が四方に響き渡った。
先日御所で行われた試楽の時、舞をする夕映えに照らされた源氏の姿が余りにも優美に見えて、これは通常のものではない仏道の妨げとなる魔障の心をそそるものだと、帝は心配になって、寺々で源氏に魔性が取り付かないように経を読ませになったりしたという。このことを聞いた人たちは、親子の情はそうあることと思ったが、東宮の母弘徽殿女御だけは、帝のあまり大げさな気の使いようと、ねたんでいた。
青海波の舞楽の時、庭に立ち並んで吹奏する楽人を垣代という。垣のように舞人を取り囲むからである。垣代には殿上役人からも、そうでない地下役人からもすぐれた技倆と認められている人たちだけが選り整えられた。
参議兼左衛門督一人と参議兼右衛門督一人の計二名が左の唐楽と右の高麗楽の指揮をする。舞の師匠で、世間で一流の人たちを、今日の舞い人に選定された各自が、それぞれ自宅に招いて、家に引き籠もって練習した。
木高い紅葉の下に、四十人の垣代が並び立ち、何とも言い表しようもない優雅な笛の音に響き合っている松風、本当の深山颪のように吹き乱れ、色とりどりに散り乱れる木の葉の中から、青海波舞が光り輝いて見える様子、体中身震いが走るような何とも恐ろしいまでに見える。激しい舞に源氏の頭に挿した紅葉がたいそう散って枝ばかりになり、源氏の上司の左大将がそばへ寄って庭前の菊を折ってさし変えた。
日暮れ前になって、空もこの絶妙優雅な舞いに感動のあまり心を動かされたようでさっと時雨がきた。
源氏のそうした非常に美しい姿で、色とりどりの菊を冠に插して、今日は又とない秘術を尽くした。舞楽の退場の際に舞う入綾の舞の時には、観衆はぞくっと背筋に寒気が走り、この世の舞とは思われない。舞が分るはずのない下人どもで、木の下、岩の陰、築山の木の葉に隠れて見ている者も、少し物のあわれを理解できる者は涙を流して観覧していた。
帝と承香殿の女御の産んだ第四皇子は、まだ童姿で、四人舞で常装束を用い、諸肌をぬぐ、秋風楽を可憐に舞ったのが、源氏の青海波に次での人気であった。この二つの舞が突出して上出来であったので、他の事にはあまり観衆の興味も移らず、かえって興ざましであったようである。
作品名:私の読む「源氏物語」- 11- 作家名:陽高慈雨