私の読む「源氏物語」 ー8-
こんなふうにてきぱき言う人が僧形の厳めしい人であるだけ、若い源氏には自分の女好みが見透かされたようで恥ずかしく、望んでいることをもう一押し続けて言うことができなかった。
「阿弥陀様がいらっしゃる堂で勤行の時刻になりました。初夜の勤めがまだしてございません。済ませましてまた」
こう言って僧都は御堂のほうへ行った。
病後の源氏は気分もすぐれなかった。雨がすこし降り冷ややかな山風が吹いてそのころから滝の音も強くなったように響くようであった。やや眠そうな読経の声が雨や滝の音に遮られて絶え絶えに聞こえてくる、こうした山の夜は誰もが物悲しく寂しく感じるものであるが、まして源氏は今いろいろな思いに悩んでいて、眠ることができないのであった。僧都が初夜だと言ったが実際はその時刻よりも更けていた。隣の室にいる人たちもまだ起きているような気配であった。源氏に気を遣い静かにしようと気を配っているらしいが、数珠が脇息に触れて鳴る音などがする、特に女の起居の衣摺れは、源氏にほのかになつかしい音で耳へ伝わってくる。それは貴族的なよい感じであった。
源氏はすぐ隣の室でもあったからこの座敷の奥に立ててある二つの屏風の合わせ目を少し引き、人を呼ぶために扇を鳴らした。先方は意外に思ったらしいが、無視しているように思わせたくないと思って、一人の女が膝行寄って来た。襖子から少し遠いところで、
「扇の音、聞き違えかしら」
と一言うのを聞いて、源氏が、暗い部屋からを考えて、
「仏の導いてくださる道は暗いところもまちがいなく行くことが出来ると言われます」
という声の若々しい品のよさに、奥の女は今夜こちらに来ている源氏と知って、答えることもできない気はしたが、
「何方への御用事でしょうか、こちらではわかりませんが」
源氏は、
「突然ものを言いかけて、失礼だとお思いになるのはごもっともですが、
初草の若葉の上を見つるより
旅寝の袖も露ぞ乾かぬ
(初草のごときうら若き少女を見てからは、
わたしの旅寝の袖は恋しさの涙の露ですっかり濡れております)
と申し上げてくださいませんか」
「そのようなお言葉を頂戴あそばす方がこちらには居られないことはご存じのようですが、どなたに」
「そう申し上げるわけがあるのだとお思いになってください」
源氏がこう言うので、女房は奥へ行って尼君に伝えた。
「まあ今風な大胆な方の御挨拶であること、この姫が少し大人になっているように、お客様は勘違いをしていられるのではないか、それにしても若草にたとえた言葉がどうして源氏の耳にはいったのであろう」
と思って、尼君は多少不安な気もするのである。しかし返歌のおそくなることだけは見苦しいと思って、
枕結ふ今宵ばかりの露けさを
深山の苔にくらべざらなむ
(今晩だけの旅の宿で涙に濡れていらっしゃるからといって、あなたの今夜だけの寂しさと、深山に住むわたしどもの寂しさを同じようにお考えにならないで下さい)
とても涙が乾く間などはございません」
と返辞をさせた。源氏は
「こんなお取り次ぎによって話し合うのは、私は経験のないことです。失礼ですが、今夜こちらで御厄介になりますのも何かのご縁でしょう、是非とも急いで御相談のしたいことがございます」
「何か勘違いなさって私にお尋ねなのだろう。源氏の君に相談事をかけられるような晴れがましいこと、私にはとてもお返辞なんかできるものではない」
「それでは尼君さま、源氏様が冷淡な扱いをするとお思いになるでございましょうから」
と言って、女房達は尼君が源氏と会うのを勧めた。
「そうだね、若い人ならお前に出て困るだろうが私など、年寄りだから、まあよい。丁寧に言ってこられたのだから」
言葉を遺して尼君は源氏に会いに出て行った。
「このようなことを申し出て、さぞかし私を出来心的な軽率な相談を持ちかける者だとお思いになるのが、当然ことです。不意にお邪魔をして申し上げるのは、何とわきまえのない者と思いのことでしょうが、私は誠意をもってお話ししていることは仏様に約束してもよろしゅう御座います」
と源氏は言ったが、相当な年配の上品な尼君が静かに源氏の前に座って話を静かに聞いているので、急に自分の希望を持ち出されないのである。
「思いがけぬ所で、お泊まり合わせになり、あなた様からこのような御相談を承りますのも、源氏様とのご縁が浅いものとは思えません」
と尼君は言った。源氏は、
「お気の毒な身の上と承りました。お亡くなりになった母親の代わりとして私を後見人としては戴けませんか。私も三歳のおりに可愛がってくれた母を失い、淋しい思いのまま年月を送って参りました。同じような境遇でいらっしゃるというので、お仲間にしていただきたいと、心から申し上げたいのですが、このような同じ屋根の下に泊まるという機会なんかまずありませんので、尼君がどう思いになられるかも考えずに一方的に申し出たのでございます」
「それは有り難いお言葉で痛み入ります。だが源氏様、何かお聞き違いをなさっておられるのではないでしょうか。私のような年寄りを頼りにしている孫娘がおりますが、まだ年端も行かぬ幼子で、大目に見てもまだまだ貴方様の許にお預けできるような躾が出来ておりません。とてもお話に乗るようなことは出来ません」
「私は尼君の仰ること何もかも存じております。ご心配なさる年齢の差などはお考えにならずに、私がどれほどあのお可愛い孫娘さんを私の側に置いてお育てもうし、行く末は私の伴侶にと望むこの熱意をお酌み取り下さいませ」
源氏がこんなに言っても、尼君は源氏が孫娘の幼齢なことを知らないのだと思う先入観があって源氏の希望を問題にしようとはしない。やがて勤行を終え僧都が戻ったので、源氏は、
「それでは、一応私の気持ちを尼君様にお伝えいたしましたので。この後、私は是非希望が叶いますように努力をいたします」
と言って立ち上がり襖を閉めて自分の部屋に戻った。
もう明け方になっていた、堂の方からは明け方の勤行のお経を読む僧侶の声が、山から吹き下ろす風にのって聞こえてくるのがとても有り難く、近くの滝の音に響いて混ざり合っていた。源氏は
吹きまよふ深山おろしに夢さめて
涙もよほす滝の音かな
(深山おろしに混じって聞こえてくる勤行の声に、私の煩悩の夢が覚めて、聞こえてくる滝の響きに感涙を催しています)
さしぐみに袖ぬらしける山水に
澄める心は騒ぎやはする
(不意に山に来られてお袖を濡らされたという山の水に、心を澄まして住んでいるわたしは驚きません)
もう耳に馴れてしまったからでしょうか」
と僧都は返歌をした。
夜が明けていく空は霞がかかり、山鳥が森の中で囀りあっている、名前を知らぬ花もそこここに咲き乱れて錦の布を敷き詰めたようである。鹿が餌を求めて歩き回っているのが源氏には珍しく見えた。そんな光景を眺めていると悩み事から紛れる。
作品名:私の読む「源氏物語」 ー8- 作家名:陽高慈雨