英雄の証
実のところキルスはアレクが女であろうがどうでもいいと思っていた。彼は貴族である男だけが魔導士になれることを疑問に思っていた。そして、何よりも自分が神官長という地位にがんじがらめにされていることに不満を持っていた。
この世界に不満を多く抱いているキルスは、女が魔導士になるという社会の秩序が乱れるようなことが起きたことに何かが変わるのではないかと少し期待していた。
部屋を出て行こうとしたキルスの背中にアレクは声を掛けた。
「キルス様、ありがとうございます」
「……どうでもいいことだ」
キルスは小さく呟くと部屋を出て行った。
宴の興奮の冷めやらぬまま数日が経過し、ムーミストの力が最も弱まる四〇年に一度訪れる日。この日にレザービトゥルドがメミスの都に怪物を送り込んで来る。
逢魔ヶ刻――空は黄昏色に染まり、昼と夜の境の刻。
夕闇が訪れようとしているなか、怪物を迎え撃つために選ばれたラーザァーと、それを支援する魔導士及び戦士たちは、防壁の外で陣を組んで怪物の襲来を待ち構えていた。だが、情勢は悪い。正式なラーザァーはアレクひとりしかいないのだから。
ただひとりの正式なラーザァーとなったアレクには当然に神器であるムーミストの弓が与えられた。
このムーミストの弓はムーミストがレザービトゥルドと戦った時に使用したもので、普通の魔導士には使いこなすことができない。なぜなら、この弓は使用者の魔力を大量に使い矢を作り出し放つために命をも削られてしまう。血の雫を服用した魔導士だからこそ使いこなせる武器なのだ。
この場で最も魔導力に長けているのは〈血の雫〉の力を得たアレクひとりであり、アレクには全軍を指揮し、自ら先陣を切って怪物に戦いを挑むという過酷な任務が化せられている。
〈血の雫〉の力を得ずとも強大な魔導力を持ち十分な戦力となりえる神官長は、その役職の重要性から神殿に匿われている。神官長が自ら危険な戦いの場に赴くなど常識ではありえないのだ。
騎獣イーラに跨るアレクの元へ血相を変えた魔導士が馬に乗って現れた。
「た、大変です、怪物が川を下って都市内に進入しました!」
都市は川に接しており、その場所だけに壁がない。怪物はその場所から都市に侵入して来たのだ。
怪物が川を下って来るなど前代未聞のことであった。この戦いにはムーミストとレザービトゥルドが定めたルールがあり、怪物は毎回、都市の正面門から攻め入って来ると決まっていたのだ。
騎獣に乗ったザヴォラムがアレクに声をかける。
「囮やもしれん。半群を率いてアレクは港に向かえ。正門の指揮は私が取る」
「ここは任せたザヴォラム!」
怪物たちの戦いは六人のラーザァーが取ることになる。しかし、正式なラーザァーはアレクだけであることから、必然的にアレクがその長となる。そして、残り3人のラーザァーの中で一番地位が高いのはザヴォラムであった。
アレクは群を率いて都市の西側にある運河に向かった。先陣を切ってアレクが率いる飛空部隊が上空から運河に向かい、残りの部隊は都市内を駆けて運河に向かった。
上空から見えるこの国の貿易の要となっている運河は酷い有様だった。船が壊され輸入されて来た物資や輸入するはずだった毛皮やワインがそこら中にぶちまけられていた。
ここで働いていた人々はすでに逃げた後で誰もいない。だが、怪物の姿もなく、辺りは静けさに満ち満ちていた。
飛空部隊は慎重に港に下り、アレクは辺りを見回しながら息を呑んだ。
静か過ぎる。怖いくらいに辺りは静寂に包まれていた。これが何かの前兆でなければよいのだが――。
上空に白鳥の翼を持った白馬が旋回する。そこに乗っているのはまさしく神官長キルスであった。彼は厳重な警護下であった神殿を抜け出してきたのだ。
キルスの目が大きく見開かれた。
「敵は水の中だ!」
二度と聞くことのないほどのキルスの怒号が響き渡る。
誰もの視線が運河へと向けられた時、水面が波打ち激しい水しぶきが大気中に舞い、水面から大きな何かが咆哮を上げながら姿を現したのだ。
大量の水が港へ流れ込み、飛空部隊の誰もが合図もなしに上空へと騎獣を翔けさせた。
水面から出ている部分だけでも九メティート(約一〇・八メートル)を越えているであろうその長い身体は蛇のようであるが、鱗は見るからにゴツゴツとしていてまるで甲冑を纏っているようだ。
禍々しい気を放つ怪物は大きな口を空けて人語を話した。
「我はレザービトゥルド。この都を滅ぼす者なり」
誰もが驚き騒ぎ喚いた。まさか、今までその姿を見せることのなかったレザービトゥルドが襲って来るとは誰もが信じていなかった。
遅れてやって来た地上部隊もレザービトゥルドの姿を見て、身体を震わせて恐れおののいた。
アレクの声が士気を高める。
「怯むな! 望むところではないか、この怪物を倒せば40年に一度の悪夢に決着がつく!」
雷光の槍をアレクがレザービトゥルドに投げつけたのを見て、屈強の戦士たちは剣を抜き、斧を構え、弓で狙いを定め、魔導士たちは遠距離魔法を放つ。
アレクは紅蓮の炎をつくり出し、レザービトゥルドの口の中に投げ込んだ。
渦巻く炎はレザービトゥルドの口の中に吸い込まれ消えてしまった。それを見てアレクは思わず声を荒げる。
「炎が効かぬのか!?」
咆哮を上げるドラゴンの口の中には鋭い剣のような歯が並び、臭い息が吐き出された。
弓が放たれが堅い鱗にはびくともせず、剣も斧も歯が立たなかった。
戦士たちは次々とドラゴンに喰われ、呑み込まれていった。
圧倒的な力の差の前にほとんどの魔導士や戦士たちは逃げ出してしまったが、アレクは逃げるわけにはいかなかった。せめて最期は誇り高いラーザァーとして……。
どんな屈強な鱗を備えていても眼だけは弱点であるはず。アレクはイーラの手綱を引いて接近戦を挑んだ。
普通の武器や魔導では歯が立たないことはわかった。アレクは腰に据えてあった〈ムーミストの弓〉を構えた。〈ムーミストの弓〉は寿命を縮め、膨大な魔導力を消費することから連続して矢を放つことはできない。できるだけレザービトゥルドとの距離を縮めて確実に狙いを定めなければならない。
〈ムーミストの弓〉を構えて果敢にもレザービトゥルドに向かったアレクであったが、巨大な口が開きアレクはひと呑みにされそうになってしまった。手綱を大きく引くが逃げる術もなくレザービトゥルドに喰われようとするその時だった。先ほどアレクが放った炎とは比べものにならないほどの地獄の業火が大きく開けたレザービトゥルドの口に中に放たれたのだ。
アレクの視線の先には、ローゼンを従えたキルスが立っていたのが見えたが、次の瞬間には甲高い悲鳴にも似た咆哮を上げたレザービトゥルドが水の中に勢いよく飛び込み、津波が発生して運河のほとりにあったものを全て流してしまい、アレクは暴れたレザービトゥルドの直撃を受けて運河の中に騎獣もろとも沈んだ。
意識を失ったアレクは激流に身を任せるしかなかった。
川の流れの緩やかな場所でアレクは川岸に運良く流れ着くことができた。
辺りはもうすでに日が落ち、夜獣たちのが徘徊する時間だ。
作品名:英雄の証 作家名:秋月あきら(秋月瑛)