少女な君は少し大人へ
1
深い深い、石を投げても音が帰ってこないような、そんな深さの眠りから、僕は這いずるように徐々に、徐々に目覚める。井戸のぬめった壁面にしがみ付き、腕を上げて這い上り、何とかして地上へと上りつめ、外の光を浴びる、そんな感じの目覚めで、それは僕にとってはいささか新鮮な起き方だった。確かに僕は一般的に目覚めの良い方だが、それでも目覚まし時計をセットしない日はないしそれに助けられる事もしばしばである。僕にとって目覚まし時計のあの不快なベル音は、今が朝である事を僕に無理やりにでも認知させるような存在なのだ。しかし、今朝の、この目覚めにはその目覚まし時計のベルの音は存在しなかった。
目覚まし時計の叫び声を聞かずに目覚めた。それに僕は違和感を所持する。
いつものとは違う、不思議な目覚めを体験しながら、僕はのそのそと、時間を確認するために身の回りの布団を退けつつ頭の方にある時計を手に取る。七時。――確かにその時計の針は十二と七をそれぞれ指していて、それは僕が普段起きるべき時刻より一時間も遅い時刻だった。
寝坊だ。一時間も多く寝てしまった。夜はちゃんと時計をオンにしたはずだ。今まで一度もその作業を欠かす事はなかったのに。
何てことだ。いや、それよりも。
朝香を。朝香を起こさねば。
「起きた?」
と、僕が慌てて布団から出ようとした瞬間、背中越しから――布団を中継して――声がした。
「起きてる?」
僕は布団を身から剥がし、後ろを向く。そこにはエプロン姿で傍に立つ朝香が居た。
「起きた?」
もう一度彼女はその台詞を繰り返す。
「……どうしたの?何で起きてるの?」
「まあ、ちょっとね」
混乱し、理解の追いついてない僕に呆れるように、彼女は軽く微笑んだ。
「それより、もうそろそろご飯が出来るから、布団を畳んで、それからテーブルを出しといてね。もうコーヒーも出来てるから、すぐ目が覚めると思うよ」
「……もうサめてるよ」
少し皮肉を込めた僕の台詞も、すぐに台所へ駈け出して行った彼女は伝わるはずもなかった。――やれやれ、冷や水に打たれたかのような気分だ。しかし、それでも彼女に言われた事をする為、僕はまず立ち上がり腕を組み上げ大きく伸びをする。
――朝香は間違いなくこの世で一番朝が弱くて、誰かの声無しには目覚める事のできない、眠り姫か白雪姫のような人間だった。そんな彼女が自分から目覚めて、おまけに僕の朝食を作っているという事実に対し、僕は動揺を禁じ得なかった。その事が信じられなさすぎて自ずから頬をつねっていたくらいだ。まるで、必死によじ登って井戸から出たら、実は世界全体が井戸の底であった事に気付いたような気分だった。
2
朝香と同棲してもう半年になる。その事が僕にはにわかには信じ難い事実だった。彼女と一緒に暮らし始めてからの生活は、まさしく嵐のように激しく、続けるのが困難なものだった。付き合っている間から、確かに彼女にはおおざっぱで男っぽい、というか端的に言えばズボラな性格が垣間見えてはいたが、それでも同棲当初は彼女との喧嘩が絶えなかった。彼女は朝自分から起きられなくて、掃除もできなくて、そして怠け癖が強く、おまけに料理もできなかった。女性らしさとはかけ離れた、家事においては凄まじく怠惰な人間だった。
――だが、それが愛おしいと気付いたのも事実で、なんだかんだあって僕らは互いの欠点を補う術を学び、徐々に日常を日常らしく過ごすことができるようになった。毎日、朝香を起こし、朝香の食事を作り、食器を洗い、掃除をし、服を洗った。そういう生活に不満は無かったし、彼女もまた同じように僕に色々と与えてくれた。そういう成り立った関係だった
だから、彼女が自分から起きて食事を作っているという状況が、僕にいつまでも、例えるならパズルのピースが一つ足りないような不快感を与え続けていた。
「シュウさん、おいしくない?」
僕のそういった感情に気付いたのか、彼女は食事を同様に取りながら僕に話しかけてくる。僕はすぐに首を振って、笑いながら誤魔化した。
「いいや。美味いよ。というか、出来あいのものなんだから美味しいに決まってるだろ?」
「いやいや、出来あいだからって料理しないわけじゃないんだよ。ウィンナーだってフライパンに乗せて焼くし、タマゴヤキだって電子レンジに入れてボタンを押す」
「そうかい。まあ朝香にとっては進歩だね――どうしたの?いつもは僕が作ってるのに」
何となく、僕は探りを入れると、朝香はうーん、と口ごもり、慎重にゆっくりと言葉を選び出す。テレビの画面の中では若い女性が今のシブヤの流行について熱弁を奮い、時折外からトラックの大きい走行音がこちらへ届いてくる。窓から見えるビル群は朝日に照らされ一日の始まりを察知し、熱心な労働者は足早に道を歩く。いつも通りの朝。
「……まあ、心境の変化って感じ?」
口を開き、彼女はまずそう言った。何か茶を濁すような、そんな雰囲気が感じ取れ僕は眉をひそめる。その表情に朝香はすぐ気付いたのか、さらにごまかすように大声で、
「だってシュウさん、こんなにぐっすり眠れた事なかったでしょ?最近」
「んー、まあ、ね。ちょっと前までは〆切に追われてたし」
言われてみれば、確かにそうだった。三日前くらいまで、確かに僕は、睡眠時間を削って仕事をこなしていたのだ。月刊雑誌に連載している小説が一本、別の雑誌のエッセイが一本、そして本業の雑誌の記事が三本。いつもは締切直前までこういった仕事を溜めてはいなかったのだが、長編の小説の展開について考えあぐねていたらあっというまに時間が過ぎてしまったのだ。
朝香はタマゴヤキを頬張りながら自慢げに、
「目覚まし時計のスイッチも、切っておいたんだよ。気付いた?」
そう言われ僕は改めて今朝、目覚まし時計のベル音を聞かなかった事に気付いた。何かのきっかけがなければあのまま永遠に眠ってしまっていたかのような、あの不可思議な眠りは確かにずっと体験したことのないものだった。
「なるほど……そうだったのか。確かに、気付かなかった。――まあ、気付かなかった事には気付いてたよ」
「……それ、すっごい小説家っぽい喋り方だ」
彼女の茶化しに僕は微笑んでコーヒーを啜る。彼女が用意した食事が目の前にある事以外は、今まで通りの朝であった。
3
朝ごはんを食べ終え、食器を台所へ運び、果たして皿洗いが始まった。僕が袖を捲っていると朝香が、自分がやるからゆっくりして、と言い始めた。無論、そういうわけにもいかなかったので(確かに今までの家事は僕が務めていたが、彼女もさすがに少しは僕の手伝いはしてくれていた。ほんの少しだったが)兎にも角にも彼女と一緒に食器を洗った。
食器洗いを終えると、彼女はいそいそと私服に着替え始める。ソファに腰掛けコーヒーを飲みながら、
「あれ、今日は朝からそんな大事な用事があるの?」
と僕は彼女に訊いた。彼女は片足立ちで異様なほどまでにバランスを取りながら靴下を履いて、それから生返事かのように、
「まあ、ね。一限目の講義に」
作品名:少女な君は少し大人へ 作家名:月山馨瑞