Zeit der Praxis 特訓タイム
がさつな燭台に立てられた蝋燭の灯が、広すぎるダイニングを仄々と照らす。
力強いが無機質なガス灯の明かりの元、毎晩破れかぶれで
自信作が売れない理由を明かすべく、配分を変えもせず黙々と特訓を続けていた
嘗ての自分が、レミーには憎くてたまらなかった。
無知で愛おしい蝋燭の融ける香り。 テーブルの中央に立てられた燭台に
彼の意識は傾いていく。
「お父さんの手作りなの。 見た目は良くないかもしれないけど、すごく丈夫なんだよ」
彼の目の前にそろりと具沢山なスープが出された。
簡素だが、ナンターレの夕食はこういった簡単なもので済ますのが普通だ。
我に帰るレミー。 物憂いままの顔に、灰緑とも言うべき独特の髪が零れ落ちていく。
ティカは彼と向かい合って食卓を囲むつもりだったが、その姿を目にした途端
気恥しくなりひとつ右の斜向かいに腰かけた。
変な人だ。 間違いない。 それとも変なのは自分?
レミーと二人の「まともな」食卓はこれが初めてだ。 気まずい空気が漂う前に
彼女は手を合わせる。 レミーも後に続いた。
今日のメニューは「ぶち込みスープ」だ。
乱雑なようで均一な大きさに切られた、ソーセージにジャガイモ、ニンジンに豆レンズ、
そして地元でとれたてのタマネギがゴロゴロと入ったスープである。
今時はここ、アベントロートのような田舎でもないと
中々お目にかかれない料理だが、嘗ては何処の家庭でも、好んで供された一品。
スープ一口分が憂鬱そうな青年の喉を通っていく。
トマトベースの微かな酸味と塩気が、顔すら思い出せない母親の労りのようで。
レミーの濁った瞳に僅かな潤みが沁みた。
「あれ、おいしくない?」
「いんや。 うまいよ。 胸にクるぐらいうまい」
最初の内はわからなかった。 自分が今抱いているこの思いが何なのか。
適度な柔らかさの具を丁寧に、執拗なほどに噛み締める。
味とともにわかってきた。 きっとこれは郷愁だ。
彼は田舎への異常な憧憬もなければ、都会への過大な敵疑心も信じない。
だが今まさに、味わい尽くしているこのスープに、そして
これを作ったすぐそばの少女に、
見た事も無い、ちっぽけでも平和な別世界を確かに感じた。
熱いようで温かい胸の余韻。 錆付きかけた回路にまどろむ様な、快い気が巡る。
≪料理があまんないの、久しぶりだなぁ≫≪レミーはくいしんぼだね≫
度々此方を伺いながら皿を片づける、若い娘の楽しげな囁きが
ふわふわと耳を通り抜けていく。
「食後の一杯、飲む?」
レミーは軽く会釈し、受け取った。 ベージュ色に糖蜜の甘い匂いが少し。
栗のペーストと牛乳が混ざる単純なものだが、
いつぞやに食べた、強欲なパティスリーの安いマロンタルトよりも遥かに好く味。
結局あの頃は上手くいかなかった。
だから俺はここにいる。 錬金術師のタマゴを温めるなんて、
柄でもない真似をする羽目になっている。
でもここの暮らしは悪くない。
面白みのない『ただの』傷薬を何百と拵えて、
結局は、マロンタルトを乱暴に貪っていたあの日に、
初心者向けの薬草図鑑で偶然サカナ草の記述を見つけ、
傷薬に健康食品としての価値を付けた結果。
ようやく、公認錬金術師として初めて山を越え
売り出す事が出来た… しょうもない過去が不意に思い浮かぶ。
苦労なんか嫌いだ。 街の奴が言う苦労はほとんど『徒労』だからだ。
自分の事ばかり気にして他人の苦労が見えない。
だから先輩はタマゴを孵る前に割ってきた。 タマゴが雛の苦労を味わって何になる。
そんなかびた教えはお呼びじゃない。
俺はレミーだ。 雌鶏になり切れない先人でも、雌鶏になる方法を知らない、あの頃の俺でもない。
もう、昔の俺とはお別れだ。
横目にレミーを窺ったティカは、勝利の女神か何かのように、
大らかな微笑みを返す。
自らの瞳に、光明を見出した探究者の、
―あるいは年相応に輝く熱が、
その時少しだけ戻っていた事に、彼は気付かなかった。
作品名:Zeit der Praxis 特訓タイム 作家名:靴ベラジカ