WonderLand(中)
「10階、1008号室。パパは外にいるから大丈夫よ」
あたしは飲みかけのココアをそのままゴミ箱に捨てて、携帯電話をオフにして、急いでエレベーターホールへと向かった。
十階に着き、案内表示に従って部屋を探す。目的の部屋を前にしたとき、初めて強い不安に駆られた。しかし、それでも引き返そうとは思わなかった。歩き始めたアリスは、物語を真っ当しなければならない。
部屋の扉をノックすると、すぐにウサギが出てきた。手招きされ、あたしは中へと入って行った。
広い部屋だった。照明は薄暗くしてあり、窓のカーテンはすべて引かれていて外が見えない。部屋の殆どの領域を、大きなダブルベッドが占めていた。窓際にはテーブルと一対のソファがあり、その上に父のものと思われる革の鞄と紙袋が置かれていた。
「あたしがワインを飲みたいって云ったから、パパはデパートへワインとオードブルを買いに出掛けたのよ」
ウサギはそう云って、大きなベッドに飛び乗るようにして座った。
「じき、パパが帰ってくるわ。アリス、あなたはあのクローゼットの中で息を潜めて楽しい陰の世界の宴を見ているといいわ。大丈夫、クローゼットにはパパが近づかないようにきちんとしてあげるから」
そう云うと、ベッドから立ち上がり、クローゼットを思い切り開けた。あたしはその中に入った。クローゼットを閉めるときに、ウサギがそっと耳打ちするように囁いた。
「陰の世界へ、ようこそ」
そう云うと、クローゼットは完全に閉められた。
ナルニア王国物語では、衣装ダンスの中が知らない世界の森へと繋がっている。手を伸ばしてみたけれど、四方八方の壁に手が触れた。クローゼットは森へは繋がってはいない。しかし、確かにこのクローゼットの向こうには違う世界が繋がっている。
ふー、ふーと、自分の呼吸の音や心臓の音が、やけに大きく聞こえる。扉と扉の間から、微かな光が漏れた。その隙間を覗き込んでみる。ウサギは携帯電話を手にしながら、ベッドの上で寝そべっている。そのうち何かを歌いだした。とても楽しそうに口ずさむその歌は、あたしの知らない歌だった。
五分ほど経っただろうか、扉を叩く音が聞こえた。ウサギがベッドに駆け寄り、かちゃんと鍵を開けるのがわかった。
「おかえりなさい」
ウサギが云うと、「ただいま、遅くなってすまなかったね」と、父の声が聞こえた。
作品名:WonderLand(中) 作家名:紅月一花