Days
秋から冬
元が小さいからそう感じるのか、金魚はあっと言う間に大きくなる。我が家の水槽にチャプンと居を構えたのがつい何か月か前。ぼちぼち餌をやったり水を変えたりしているうちに、いつの間にか雄大なヒレを蓄えたオトナ系金魚になっていた。
「水槽大きくした方がいいのかなあ」
なぜか金魚に向かってそう言うと、金魚はぶすっとした目でこちらを見て、あとは小さな水槽の中をゆっくり上下するだけだった。
「誰と喋ってるの、都々里」
「いや、水槽も小さくなったかなあって」
恩は台所の洗い物を片付けたところだった。家事についてはおおよそ彼の範疇だ。私だって一通りの家事は出来るつもりだが、恩に任せておいた方がハイクオリティだというのは実証済みである。特に料理に関しては彼の方が良い。いつも自宅に戻って来ると恩の手料理が待っているというのは、とても素晴らしいことだと思う。
「そうだね、金魚もすぐに大きくなっちゃったから」
「ねえ、見に行こうよ」
「え、何を?」
「だからさ、我らが金魚の新しい水槽を」
というのはまあ口実で、朝から雨が降ったり止んだりでずっと家の中にいたから、外に出る理由が欲しくなったのだ。とにかく外の空気に触れたい。恩が一緒に来てくれたら尚の事よろしい。
「水槽…、雨降っちゃってるから運ぶのは面倒だなあ」
「それなら水槽はいいから、どこか行こう?」
「いや、だから雨降ってるし、水槽いいなら部屋にいれば…」
「えー、ケチ」
恩は少し困ったような顔を見せた。私は外に行きたいという以上に、恩に遊んで欲しかった。遊んでもらわないと寂しくて死んでしまう。
なんて思ってそっぽを向いていたら、不意に私の頬をつつくものがあった。言わずと知れた。
「冗談。もともと買い足さなきゃいけない物あったから買いに行こうと思ってたし、ずうっと家の中じゃあつまらないもんね。そんな膨れっ面しないで」
謀られたか。
「それに…ここのところ都々里が大学から帰るの遅かったから、あんまり遊んでなかったもんねぇ…あれれ、違ったかな?」
「ち、違うし…!」
謀られたな。
「にしても、都々里の頬っぺたって柔らかいよね。ほら、ぷにぷに…」
「もうっ、出掛けるんでしょ?早く行くよ!」
私は逃げるようにその場を離れ、出掛ける格好に着替えた。鏡を見なくても顔が真っ赤になっているのはよく分かっていた。ふと私は頬っぺたに触り、恩の指がこのぷにぷにをつついている感覚を思い出して、そこはかとない恥ずかしさと嬉しさを感じた。もう何か月も一緒で恥ずかしいも何もないとは思うが…。
都合良く雨は止んでいたものの、空模様は油断ならない。念のために傘を携える。よく考えると、確かに最近は私の帰りが遅いせいもあって、こうして二人で出掛けるなんてこともなかった。だからこういうのは久し振りだ。
「久しぶりだね。都々里と二人で出掛けるの」
アパートの階段を下りながら恩が話し掛ける。冷たい風が一階から三階まで吹き抜けていった。もう冬になるのだ。
「奇遇、私もおんなじこと考えてた」
郵便受けに何かのチラシが挟まって、風に合わせてぴらぴらとはためいている。アパート前の小さな通りに出ると、向こうの方で、小学生と思しき数人が寒さに負けじとワイワイ遊んでいた。彼らの吐息が白くなっているのは遠目でも分かった。私の息もすぐに白くなり、途端に風に流されて消えた。少し前まで何処に行っても漂っていたキンモクセイの香り、今では消え失せたように微塵も感じられない。
風の吹く度に、枯れた色をした葉っぱの隙間から寂しげな音が聞こえる。寒い季節になってしまった。
私は恩に寄り添う。恩は何も言わず、そっと私の肩を抱く。彼のそばにいると温かい気持ちになれる。彼の腕の中で、このまま眠りに落ちてもおかしくないほど、何の保証もない安心感の中に包まれていたい。
こんなわがままが許されるのだから、寒い季節だって嫌いではない。
帰りは雨が降った。傘を持ってきて正解だった。
「なかったー」
「今度はもっとちゃんとした店に行こっか」
買い物を終えて帰路につく。荷物持ちは恩の仕事。
来る時に見たはずの景色が、雨の中ではまた少し違って見える。目に映るもの全てが低くうなだれたように見えて、建物の影や車のライトもぼんやりと濁っている。
「…雨の日ってさ」
思い出したように唐突に恩が喋り出した。
「…あんまり好きじゃなかったんだ。濡れるし面倒だし」
車の往来が多い通りを脇にそれて小さな路地に入る。先へ進むにつれて背後の喧騒が遠ざかり、お互いの足音だけがあたりに反響している。今ここには、恩と私の二人だけだ。
「都々里は覚えてるか分からないけど、僕らが初めて会った時も雨が降ってたよね。都々里は今日みたいに赤い傘を差してた。
あの時、僕はとても不安だった。都々里が僕を受け入れてくれるか心配で。それでも都々里は僕をそばにいさせてくれた。本当に嬉しかった。
気付いてた?こう見えても、笑ってばかりじゃないんだよ」
彼と最初に出会った時、私はいつも通りの帰り道をアパートに向かって歩いていた。何も変わることのない一日のはずだった。
あの時も恩は笑っていた。ぎこちなく不器用に、でもちょっとだけ嬉しそうに笑っていた。
「不思議だよね、それからずっと都々里と一緒にいて、晴れの日も、曇りの日も、風の強い日もずっと一緒にいて。それで雨の日になるとね、周りの色んな世界が雨の向こう側に消えてしまうみたいで、僕と都々里だけが、感じられる世界の全てなんだって思えるようになったんだ。だから今は雨の日も嫌いじゃない」
恩は右手をポケットに入れたまま、話している間はどこか遠い所に思いを馳せているような、そんな目をしていた。そういう彼を見ていると、自分の知らない恩の姿がまだまだあるんじゃないかと不安になる。目の前の彼も、私が今までに見たことのない表情を浮かべていた。寂しいには優しすぎて、憂いには温かすぎる。
「ありがとね、都々里」
そう言って私を見るのだ。私を。
行きに子供たちが遊んでいた辺りまで来ると、道路には大きな水たまりができていた。降り込む雨粒が波紋となり、波紋は表面を縫って絶えることがない。
「どうしてそんなこと言うの」
自分の口からなぜそんな言葉が出たのか分からない。些細なことのようで、それでもとても大事なことのように感じた。
「うーん、ちょっと思い出したから」
彼はいつものように笑いながらそう返した。いつもの声で、いつもの口調で。それだけなのに、どこからか不安な気持ちがこみ上げてくる。それはとても幸せなはずなのに、誰も気付いてないだけで本当はとても悲しいことなのではないかと思った。
恩の言う通り、世界がまるで私達二人だけになってしまったみたいで、傘を打つ雨以外には何もなかった。もし本当にそうなら、世界はすぐにでも二人の物語で満たされてしまうだろう。ただ私は、それが永遠に尽きない物語であることを何の恐れもなく信じてしまえるほど器の大きな人間ではなかった。私が恩を好きで、恩が私を好きであることには何の確約もないのだから。