冬のトンボ
『冬のトンボ』
年の瀬が迫った週末、会社の宴会がそろそろ終わりそうな頃、アオキはすぐ近くに派遣社員ケイがいることに気づき、「一緒に飲むか?」と冗談半分に誘ってみた。すると、彼女が嬉しそうな顔でうなずいたので、近くの居酒屋に一緒に入った。
居酒屋の個室に案内された。
しばらく雑談をした後、ケイが呟くように、「いつだったが、まだ咲いているバラを見つけたの。今にも、散ってしまいそうだった。ふと、自分と同じだと思った」と呟いた。
アオキは彼女の顔を見た。何ともいえない寂しい顔をしている。彼女がどんな過去を背負って来たかは知らない。ただ、年齢が三十五歳で契約社員として一年前に来た。知っているのは、それだけ。美人だが、刺の刺さったものの言い方をするので、あまり好かれてはいない。
アオキも酔っていたが、言葉を慎重に選び、「どういう意味だ?」と尋ねた。
「そんなことも分からないの。鈍いわね」
「昔からどんくさいと言われた」とアオキは自嘲した。
「どんくさいから独身なの?」
ケイは飲みすぎると箍が外れるという噂があったが、まさにその箍が外れた状態であった。箍が外れると、棘のある言い方を容赦なくする。まるで日頃のうっぷんを晴らすかのように。
「そうかもしれない」と少しむきになって応えた。
「怒っている? ごめんなさい」とケイは仰々しく頭は下げた。
しばらくして、ケイは「婚活がうまくいかない」と告白した。
アオキは驚きの色を隠せなかった。
「結婚したいのか?」
ケイはむっとした顔をした。
「アオキさんは結婚しないの?」
「しない」と答えた。
「どうして?」
「自由が好きだから」
「私も諦めてシングルで生きようかな? 最近、誰も口説いてくれないし」とこぼした。
「君はまだ綺麗だ。まだまだ頑張れると思うよ」
すると、「そんな上から目線で言わないでください。だいたい、今日まで、どんなに頑張ってきたか分かります? 出来の悪い新入社員の仕事を手伝ったり、さぼっている中堅社員のフォローをしたり、だいたい契約社員の私が、何でそこまでやらないといけないの?」と怒りを露わにした。
どう答えたらいいのか、戸惑っていると、
「いいの。分かっているの。契約社員だからでしょ。そんなことは言わなくとも分かるの。でも悔しい」
「その悔しさは分かる」と言おうと思ったが止めた。下手なことを言って、火に油を注ぐような真似をするのは得策ではないと考えたからである。
「枯れたバラを見たとき、はっきりと気付いたの。自分は枯れていくバラだって。この前、鏡をじっと見ていたら、確かに顔のあちこちに小皺がたくさんあった。シミもある。いつの間に、こんなに老けたんだろうと思った。ほんの少し前まで、いろんな男が言い寄ってきたのに、今はもう誰も言い寄らない。寄ってくるのは不倫をしたがっている色褪せたオジサンだけ……。ねえ、アオキさんは私をどう思っているの?」
「どういう意味?」
「一人の女性として見てくれる?」
アオキは答えずにわざとらしく時計を見た。時計の針は十一時だ。
「もう、そろそろ帰ろうか?」
ケイは「もう、帰るの?」と言って、辺りを見回した。誰もいない。
アオキは清算した。
二人で店を出た。
金曜の繁華街というのに、行き交う人もまばらだ。
「静かだ。というよりも、寂しい感じがする」
「不景気なだけよ。景気が良くなれば賑わう。確か政府は景気刺激策を講じるといっているから、一年後ぐらいには、良くなっていると思う」とケイは笑った。
そんな簡単な話ではない。この国自体が衰退し緩やかな死に向かっている。だが、余計なことを言うのはよそう。「酔っ払い相手に講釈を垂れても仕方がない」とアオキは思った。
「よく知っているな」
「私はインターネットで勉強しているの。人に負けたくないから」
負けたくない。そうだ、負けたくないという言葉が彼女の生き方を示している。女にも、男にも、決して弱さを見せない。
「ねえ、私はクビになるの?」とケイは立ち止まった。
「どうして、突然、そんなことを聞く」と微笑んだ。
「噂を耳にしたから」
「噂の多くは、根も葉もない」
「また上から目線で言う。そういうの、嫌いだと言ったでしょ」
「悪かったよ」と素直に謝った。
「へえ、素直に謝るんだ」とケイは感心した。
「謝るのはおかしいか?」
「おかしくないけど、おかしい」とケイは笑った。
彼女の顔を見た。まるで子供のような笑顔だった。昼間では見たことのない顔だ。
ケイは突然顔を近づけて、「ねえ、キスをしてくれる?」と囁いた。
アオキは周りを見た。そこはちょうど路地裏の片隅で誰もいなかった。アオキもキスをしたい衝動がこみあげてきたが、数か月前に起きた事件を思い出した。歓迎会の席で酔った女子社員にキスをされた男性社員が同じようにキスをやり返したら、翌日、セクハラで訴えられたのである。つまらないことで躓いて、会社人生を台無しにしたくなかったので、「この次ならいいよ」とかわした。
「そうね」とケイは呟くように言った。
翌日、アオキはケイに仕事を頼むために呼んだ。ケイは何もなかったように話を聞いた。アオキは狐につまれたような気分だった。
ケイが帰るとき、アオキのところに来て、「また誘ってください」と囁いた。
その日は休日だった。
夕方、買い物に出た。マンションに戻り、カーテンを閉めようとしたら、網戸に何かがしがみついているのを見つけた。よく見ると、それはトンボだった。手に取ると、微かに震えていた。まだ飛べるのかと思って、床に置いてみたが、時折、小刻みに羽を動かすだけだが、まだ生きていると思うと妙に嬉しくなった。どうして、こんなところに来たのか。今まで何をしてきたのか。いろんなことを考えた。無論、分かるはずはないと分かりながら考えたのである。
どれだけ、時間が経ったのだろう。いつしか、月明かりが地上を照らし、風も少し出てきた。
トンボが旅の途中ではないのかと思ったアオキは、トンボを網戸のところにやった。すると、トンボは網戸にしがみついた。ガラス戸越しに観察したが、まるで死んでいるように動かない。ただ、落ちないところを見ると、まだ生きている。その姿を見て、必ず飛ぶとアオキは思った。
年の瀬が迫った週末、会社の宴会がそろそろ終わりそうな頃、アオキはすぐ近くに派遣社員ケイがいることに気づき、「一緒に飲むか?」と冗談半分に誘ってみた。すると、彼女が嬉しそうな顔でうなずいたので、近くの居酒屋に一緒に入った。
居酒屋の個室に案内された。
しばらく雑談をした後、ケイが呟くように、「いつだったが、まだ咲いているバラを見つけたの。今にも、散ってしまいそうだった。ふと、自分と同じだと思った」と呟いた。
アオキは彼女の顔を見た。何ともいえない寂しい顔をしている。彼女がどんな過去を背負って来たかは知らない。ただ、年齢が三十五歳で契約社員として一年前に来た。知っているのは、それだけ。美人だが、刺の刺さったものの言い方をするので、あまり好かれてはいない。
アオキも酔っていたが、言葉を慎重に選び、「どういう意味だ?」と尋ねた。
「そんなことも分からないの。鈍いわね」
「昔からどんくさいと言われた」とアオキは自嘲した。
「どんくさいから独身なの?」
ケイは飲みすぎると箍が外れるという噂があったが、まさにその箍が外れた状態であった。箍が外れると、棘のある言い方を容赦なくする。まるで日頃のうっぷんを晴らすかのように。
「そうかもしれない」と少しむきになって応えた。
「怒っている? ごめんなさい」とケイは仰々しく頭は下げた。
しばらくして、ケイは「婚活がうまくいかない」と告白した。
アオキは驚きの色を隠せなかった。
「結婚したいのか?」
ケイはむっとした顔をした。
「アオキさんは結婚しないの?」
「しない」と答えた。
「どうして?」
「自由が好きだから」
「私も諦めてシングルで生きようかな? 最近、誰も口説いてくれないし」とこぼした。
「君はまだ綺麗だ。まだまだ頑張れると思うよ」
すると、「そんな上から目線で言わないでください。だいたい、今日まで、どんなに頑張ってきたか分かります? 出来の悪い新入社員の仕事を手伝ったり、さぼっている中堅社員のフォローをしたり、だいたい契約社員の私が、何でそこまでやらないといけないの?」と怒りを露わにした。
どう答えたらいいのか、戸惑っていると、
「いいの。分かっているの。契約社員だからでしょ。そんなことは言わなくとも分かるの。でも悔しい」
「その悔しさは分かる」と言おうと思ったが止めた。下手なことを言って、火に油を注ぐような真似をするのは得策ではないと考えたからである。
「枯れたバラを見たとき、はっきりと気付いたの。自分は枯れていくバラだって。この前、鏡をじっと見ていたら、確かに顔のあちこちに小皺がたくさんあった。シミもある。いつの間に、こんなに老けたんだろうと思った。ほんの少し前まで、いろんな男が言い寄ってきたのに、今はもう誰も言い寄らない。寄ってくるのは不倫をしたがっている色褪せたオジサンだけ……。ねえ、アオキさんは私をどう思っているの?」
「どういう意味?」
「一人の女性として見てくれる?」
アオキは答えずにわざとらしく時計を見た。時計の針は十一時だ。
「もう、そろそろ帰ろうか?」
ケイは「もう、帰るの?」と言って、辺りを見回した。誰もいない。
アオキは清算した。
二人で店を出た。
金曜の繁華街というのに、行き交う人もまばらだ。
「静かだ。というよりも、寂しい感じがする」
「不景気なだけよ。景気が良くなれば賑わう。確か政府は景気刺激策を講じるといっているから、一年後ぐらいには、良くなっていると思う」とケイは笑った。
そんな簡単な話ではない。この国自体が衰退し緩やかな死に向かっている。だが、余計なことを言うのはよそう。「酔っ払い相手に講釈を垂れても仕方がない」とアオキは思った。
「よく知っているな」
「私はインターネットで勉強しているの。人に負けたくないから」
負けたくない。そうだ、負けたくないという言葉が彼女の生き方を示している。女にも、男にも、決して弱さを見せない。
「ねえ、私はクビになるの?」とケイは立ち止まった。
「どうして、突然、そんなことを聞く」と微笑んだ。
「噂を耳にしたから」
「噂の多くは、根も葉もない」
「また上から目線で言う。そういうの、嫌いだと言ったでしょ」
「悪かったよ」と素直に謝った。
「へえ、素直に謝るんだ」とケイは感心した。
「謝るのはおかしいか?」
「おかしくないけど、おかしい」とケイは笑った。
彼女の顔を見た。まるで子供のような笑顔だった。昼間では見たことのない顔だ。
ケイは突然顔を近づけて、「ねえ、キスをしてくれる?」と囁いた。
アオキは周りを見た。そこはちょうど路地裏の片隅で誰もいなかった。アオキもキスをしたい衝動がこみあげてきたが、数か月前に起きた事件を思い出した。歓迎会の席で酔った女子社員にキスをされた男性社員が同じようにキスをやり返したら、翌日、セクハラで訴えられたのである。つまらないことで躓いて、会社人生を台無しにしたくなかったので、「この次ならいいよ」とかわした。
「そうね」とケイは呟くように言った。
翌日、アオキはケイに仕事を頼むために呼んだ。ケイは何もなかったように話を聞いた。アオキは狐につまれたような気分だった。
ケイが帰るとき、アオキのところに来て、「また誘ってください」と囁いた。
その日は休日だった。
夕方、買い物に出た。マンションに戻り、カーテンを閉めようとしたら、網戸に何かがしがみついているのを見つけた。よく見ると、それはトンボだった。手に取ると、微かに震えていた。まだ飛べるのかと思って、床に置いてみたが、時折、小刻みに羽を動かすだけだが、まだ生きていると思うと妙に嬉しくなった。どうして、こんなところに来たのか。今まで何をしてきたのか。いろんなことを考えた。無論、分かるはずはないと分かりながら考えたのである。
どれだけ、時間が経ったのだろう。いつしか、月明かりが地上を照らし、風も少し出てきた。
トンボが旅の途中ではないのかと思ったアオキは、トンボを網戸のところにやった。すると、トンボは網戸にしがみついた。ガラス戸越しに観察したが、まるで死んでいるように動かない。ただ、落ちないところを見ると、まだ生きている。その姿を見て、必ず飛ぶとアオキは思った。