正常な世界にて
【第36章】
私の奥歯が、コンサータ錠を噛み砕く。割れたカプセルから流れ出る粉薬が、苦味と共に、私の脳神経を鼓舞させる。
右目はスコープ越しに、高層マンションの最上階を捉えている。そこに身を隠す、あのスナイパーを探しているのだ。お気に入りだけど、ロングスカートに切りこみを入れ、伏せ撃ちをしやすくした。ここから潜伏場所まで三百メートルはあるけど、私にできる準備はやった。
花壇のそばで構え続けていると、舞う蝶の羽ばたきすら聞こえてくるよう。
隣りでは坂本君が、双眼鏡を覗き、私の護衛から見落としまでをフォロー中だ。とっても頼りにしてるよ。
もしかすると、別行動中の伊藤たちが、スナイパーを仕留めるかもしれない。坂本君は敵討ちできないことになるが、その辺も含め、坂本君は渋々納得してくれている。悲しいことに、彼の母親以外にも、犠牲者が十人ほど出ていた……。
やがて、スコープを覗く右目にも薬の効果が届き、視神経の興奮をじわじわと感じ始める。
坂本君の勧めで、私はコンサータを「追い薬」したのだ。
ADHD対策の特効薬コンサータには、成分が一気に放出されないよう、カプセルから少しずつ放出される仕組みが取り入れられている。これは効果を長持ちさせるためであり、乱用を防ぐためでもある。
つまり、私がやった追い薬および噛み砕きは、本来やっちゃいけないこと……。崩壊済みの社会面じゃなく、大事な心身面でね。
元々犯罪じゃないだろうし、悪事を取り締まる警察は、もう見かけない始末。だけど今は、病院や医者のほうも同様だった。
とはいえ今は非常時。ADHDの私が、ライフルのスコープを集中して覗き続けるには、多少の乱用は仕方ない。たぶん、明日服用しなければ大丈夫だろう。
……今のところ、あのスナイパーは姿をまったく見せない。絶好の狙撃ポイントを見つけたとき、すでに人々は屋内への避難を完了させており、狙うべきターゲットがいないと判断したんだろう。
しかし、最上階にまだ潜んでいる可能性は高い。あの高山さんのだから、頃合いをみて引き揚げさせることはさせないはず。
私たちがすっかり油断し、農作業か野外パーティを始めたところを、再び狙うつもりだと思う。