正常な世界にて
エレベーターの到着も遅く感じたけど、それが下へ降りるスピードは、その倍ぐらい遅く感じる。今のように急いでいる時にありがちで、ホントに不思議だ。
ここでふと、私の嗅覚が何かを察知する。エレベーター内に、砂糖を焦がしたような甘い香りが漂っているのだ。そういえば、さっきも少しこんな香りがしたような気が。
「ああ、この香りだよ」
伊藤が左手の小包を見せてきた。さっきも気になった小包だ。中身はきっと甘いお菓子。
「コレは砂糖爆弾だよ。まだ試作品だけど、なかなかの爆発を披露してくれるはずだから期待して」
逃げ場の無いエレベーターで、伊藤は平然とそう言った……。まるで、出来立ての創作料理でも運んでいるかのように。
「……ちょっと! 危ないじゃないですか!」
死への恐怖心が当然湧き上がり、私は言葉を震わせる。
とはいえ、ここでパニックを起こすわけにはいかない。熟睡中の赤ちゃんがいるかのように落ち着かなくちゃね。
とはいえ、エレベーターのドアが開き始めた瞬間、私が勢いよく飛び出したのは言うまでもない。ドアに左肩を痛くぶつけ、伊藤に笑われたけど、今は恥に堪えよう……。
幸い、坂本君はすぐ見つけられた。マンションのエントランスから二十メートルほどの場所で、シャベルで地面を掘っている。坂本ママたちと共に、敷地内の芝生を掘り返していた。シャツブラウスを土や汗で汚しながら、朝から働く彼に申し訳なさを覚える私。
いや、それよりも今は、コンマ一秒でも早く、高山さんとの電話について、彼と話し合わなきゃね。彼女たちへの対応を、ここの守りを強化しなくちゃいけない。ここで下手に油断すれば、畑を耕し、実りを収穫することは叶わないのだ。
「なに!?」
私の声かけに対し、彼は応答する。振り向いた拍子に、数滴の汗が地面に染みていく。
「またまた、悪いニュースだよ! 今度は彼女からね!」
背後から伊藤の大声。地味な男性かと思ってたけど、意外と大きな声を出せるらしい。
「ハア、今度はなに? 誰が死んだの?」
うんざり顔の坂本君。声もそんな調子で、疲れすら感じ取れる。
どうやら、二人分の死体が消失しただけじゃなく、他にもいろいろな珍事が起きたらしいね。つい一週間ほど前なら、スマホでツイッターのトレンドを探れば、おおよその予想をつけられたはず。
「ちょっと休憩してくる」
坂本君はシャベルを地面に刺し、母親に声をかけた。彼女はオシャレなピンク柄の、日除け帽子を被っている。
「うん、休んどいで。ついでに帽子を被ってきたら?」
「……う〜ん、考えとく」
坂本君は髪型が乱れるのが嫌で、帽子を被らない。まあ、男の彼なら、日焼けなんてたいした問題じゃない。
梅雨時ながら、今日も晴れているし、私が代わりに帽子を被りたいところ。うんざりな調子の彼に、高山さんの話をきちんと聞かせ終わるまで、少々時間がかかりそうだからね。
私の足は自然と、マンションのエントランスへ向かう。日焼けが気になるので、出入口の軒下で話すのだ。熱中症のリスクも考えれば、正しい判断だろう。