クリスマスの夜
十二月十五日、ユキオはリカを訪ねた。昔、住んでいたアパートは消えている。近くのぼろいアパートにリカ行った。そこに住んでいると母親から聞いていたから。ためらいながらも足が勝手に進んでいった。とうとう部屋の戸口まで来た。ユキオは娘のためにリカに会おうと思っていたのである。だが、会って何と言えばいいのか。自分は許せるのか。いろいろ考えたが、結論は出ない。いたずらに時間が過ぎた。ベルを押す勇気が湧かない。自分が情けなかった。仕方なしに立ち去ろうとした。そのとき、突然、ドアが開いた。ドアの向こうには確かにリカがいた。とても老けていた。五年以上のものが感じられずにはいられなかった。
ユキオは言葉が何も出なかった。
リカは微笑もうとしていたけれど、その眼は、今にも涙がこぼれそうだった。
「そんなに見ないでよ。恥ずかしいじゃない。ずいぶんと老けっちゃったでしょ? 自分でもびっくりするくらい」と彼女は笑った。
ユキオは彼女に降り注いだであろうたくさんの悲しみを思った。すると、一筋の涙が流れた。
「泣いているの?」
「いや、目に雪が入った」
確かに雪がちらついていた。
「そんなところで突っ立っていないで。寒いから中に入ってよ」
殺風景な部屋だった。何も飾り気がなく、実にシンプルだった。それはリカが置かれた厳しい状況を如実に示していた。
五年の歳月がどんなものであったのか、ユキオはいろいろ想像してみた。
「東京はどうだった? 五年過ごしたのだろ?」
「別に……あっという間に時間が過ぎてしまった」
「一緒に行った男は?」
リカはうつむいた。ユキオはまずいことを聞いたと思った。
「いやなら答えなくとも……」
リカは首を振った。
「いえ、ちゃんと答えないといけない。彼とはもう別れた。随分と前に……。結局、彼にとっては単なる気まぐれ、遊び相手、バカみたい。それを真に受けて。遊ばれて、ごみみたいに捨てられた。笑ってよ」
別の人のことを話しているかのように淡々とした口調だった。そして笑みを作ろうとしているのが分かった。
「なぜ……戻ってきた?」
「母親が病気になったから」
リカには、母以外の身寄りはいない。母親が死んだら、独りぼっちだ。寂しがり屋の彼女が、その孤独に耐えられるだろうかと余計な心配をした。だからといって、戻ってこいとも言えなかった。
「ここで暮らすのか?」
リカは答えない。
「お母さんは大丈夫なのか?」
「歳だもの。もう先がないみたい」
彼女はまた笑った。笑い方がぎこちない。
部屋から列車が通り過ぎるのが見えた。ふとユキオは懐かしい遠い昔のことを思った。二人で住んでいた部屋もやはり通り過ぎる列車が見えた。通り過ぎる列車を眺めながら他愛もない話をした。あの頃、愛があった。夢があった。子供が生まれた。小さくてかわいい天使のような子供。二人で代わる代わる抱いた。
雪が雨に変わった。細かな雨。細かいけれど、強めの雨だ。
「お前、アンナに会ったか?」
リカは慌てて首を振った。
「会うわけはないでしょ。第一、会わせる顔がない」
「本当か? 近づいたりはしなかった?」
「近づく……近づくって、どれくらいのこと?」
「アンナは昔のお前と同じ匂いのする女とすれ違ったと言っていた。それが君なら……」
「あの子はやはりアンナだったの。一瞬、目があった。でも偶然よ。それにほんの一瞬の出来事だった」
「そんなことはもうどうでもいい。娘のためにもう一度母親になってくれ」
「何を言っているのよ。そんなの無理よ。成りたくたって成れないわよ。だって、私はあなたとアンナを捨てたろくでなしよ。もう止めてよ!」
リカはあまりにも突拍子もない話にからかわれているように少し怒りを覚えた。
「もう一度考えてくれ」
「何度考えても、変わらない」
リカは頑なに拒んだ。
ユキオは箱を置いた。
「何、これ?」
「ケーキだよ。昔、ふと、ケーキを買ったことを思い出して買ってきた。アンナは病院にいる。会いたいと言っている。クリスマスの日が手術だ。助からないかもしれない」
言い終わると、ユキオは立ち上がった。
「帰る」
部屋を出ようとするユキオに、リカは傘を差しだしたが、受け取らずに出て行った。
リカは見送った。雨は再び雪に変わっている。傘を差さない彼の背中に容赦なく降る。背中を丸めて歩く姿が雪の中に消えていく。リカの涙が流れてきた。涙が止まらない。その姿が消えたとき、部屋に戻った。
ケーキの入った箱を開けた。懐かしいケーキが出てきた。リカは思い出した。貧しかったが、クリスマスのときはケーキを買って食べたことを。箱から取り出してリカは一口食べてみた。昔と同じように甘くておいしいかった。そうだ、昔、食べられる幸せを二人で話した。そのことを思い出したら、また涙がこぼれた。
クリスマスの前の夜。雪が強く降った。地上の無数の汚れを消すかのように降った。アンナはずっと口を利かなくなった。あたかも自分の終わりを予期しているかのように。
「もうじき、死ぬの」
それがアンナの口癖となった。
「マッチ売りの少女みたいに、夢を見て死ぬの。どうせ夢をみるなら、お母さんの夢を見て死にたい」
クリスマスの日、アンナは手術の日であった。リカが姿を現した。
「何も言わないでよ。付き添いたいの」
「会ってやれ。アンナを励ましてくれ」とユキオが言った。
病室に入ると、アンナが「あ! お母さんだ!」と叫んだ。
リカはアンナを抱きしめた。リカは子供みたいに泣いた。
「どうして、そんなに泣くの? 会えて、嬉しくないの?」
「嬉しいの。嬉しいから涙が止まらないの」
手術の間、リカはずっとアンナのことを思っていた。それは祈りの姿だった。その姿を見て、ユキオは心が打たれた。過去は許してあげようとも思った。
アンナの手術はうまくいった。
「今日はアンナのそばにいてやってくれ」とユキオは言った。
「あなたは?」
「俺は帰る。明日、仕事もあるし……」
アンナはそばで二人の会話を聞いていた。
「だめだよ。二人とも帰っちゃ。今日はクリスマスだよ。ほら、鐘の音がするでしょ?」
「アンナ、気のせいだよ。何もしないよ」
リカは「静かに」と小声で言った。「確かに聞こえる。ずっと、ずっと遠くの方から聞こえてくる」
三人には、確かに遠くで鳴る鐘の音が聞こえてきた。