クリスマスの夜
『クリスマスの夜』
そこは街で一番大きな病院の一室である。ベッドには少女が横たわっている。十歳になるアンナだ。手術をしなければ、少女に残された時間はほんの僅かだ。手術が成功するかどうかも分からない。少女もそのことを薄々気づいていたが、決して口にしなかった。余計な心配を、付き添っている父親ユキオにさせたくなかったからである。実にいい父親である。取り柄はただコツコツと真面目に働くことだけである。
「雪だ」とアンナはか細い腕を出して窓の外を指差した。
「十二月になったから、雪が降ってきてもおかしくない」
「そうだね。もうじきクリスマス……」とアンナは呟いた。
言った後で、何か気まずいことを言ってしまったような顔をした。
「クリスマスプレゼント、何がいい?」
「何もいらないよ」
アンナは知っていたのである。父親が生活するだけで精いっぱいなことを。
「洋服でも買おうか、アンナがピンク色の服でも」とアンナを見つめると、アンナは微笑んだ。その笑顔が作っているもので、少し強張っている。さすがのユキオも気づいたが、何も言えなかった。ただおうむ返しのように微笑むだけ。
昔、ユキオは妻リカと仲睦まじく暮らしていた。娘のアンナが生まれたとき、夫婦は幸せの絶頂だった。が、娘が二歳になったとき、ユキオは突然交通事故に遭い片足失った。夜道を歩いていたとき、後ろからはねられたのである。事故を起こしたのは二十代の若者だった。その日暮らしをしているような輩で十分な補償は払えなかった。その時から、幸せな一家の歯車が狂ってしまった。
何もかもうまくケースは稀にしかないが、逆に何もかもうまくいかないケースは珍しくもない。ユキオの一家もそんな何もかもがうまくいかなかったケースだ。ユキオは片足を失ったせいで長年勤めた会社を辞めるはめになった。そのうえ、目いっぱいローンを組んだ家も手放す羽目になった。ユキオ以上に事故の犠牲となったのは妻のリカであった。幼子を育て、ユキオを看護し、そしてパートの仕事をした。無理を重ね、肉体的にも精神的にも追い詰められた。
誰にも心の隙間が生じる。そんな隙間を満たしてくれる人がいたら、きっと心を揺り動かされるに違いない。リカの場合もそうだった。 何もかもに疲れ果てたとき、一人の青年が目の前に現れた。遠い昔、少女の頃に夢見たような若者だった。ある夜、二人は近くの蛍の里に出かけた。蛍の幻想的な光に照らされて、互いにただならぬ近さを感じた。そのとき、リカは気づいた。この近さは危ないと。すぐに離れようとしたが、若者は許さなかった。若者の熱い情熱がリカを襲った。リカは拒まなかった。むしろ、心のどこかでそれを望んでいたことに気づいた。リカは夫と幼い娘を捨てて、若い男と駆け落ちをしたのは、その数日後であった。ユキオはリカが駆け落ちしたことに対して何の感情も生まれてこない自分が不思議だった。むしろほっとしたというのが実感であった。なぜほっとしたのか。地獄のような生活で喘いでいる彼女を見るのが忍びなかったのである。心のどこかが彼女が消えることを願ったのかもしれない。それゆえ、他の男と逃げたのを責める気にはなれなかったのである。ただ不憫なのは何も知らないまま取り残された娘だった。
リカが出ていったとき、アンナが「お母さん、どこに行ったの?」と聞いたので、
「遠くに行った」とだけ答えた。
理由をあいまいにしたまま、「用があって、東京に行った」と言い続けたしばらくして娘は母親のことを聞かなくなった。それから五年の歳月が過ぎた。
病院に入った一週間後のことである。突然、母親に会ったと言い始めた。分かれた当時は五歳だった。あれから五年の月日が流れている。もう忘れているはずなのに。
「近くの公園で、友達と遊んでいたら、大人の女の人にぶつかって転んだの。そしたらその人が起こしてくれた。その人、お母さんに似ていた。お母さんと同じいい匂いがしたから、間違いじゃない」と言い張った。
ユキオは思い出した。リカは黒くて長い髪を大切していた。その長い髪を洗った後、シャンプーのいい匂いが仄かにした。娘はそのことを鮮明に覚えていたのであろう。
「お母さんに会いたい。お母さんに会ったらいろんな話をしたい」と娘はポツリとつぶやいた。
「もう会えない。会えるはずはない」とユキオは言えなかった。
「ねえ、お父さん、あの人は本当のお母さんじゃないの?」
ユキオは首を振った。
「どこにいるの?」
五歳の頃の娘との会話をユキオは思い出した。
「東京にいる。わけがあって、ずっと東京で暮らしている」
東京で暮らしていることは風の便りに聞いていた。駆け落ちした相手と今に一緒にいるかどうかは分からなかったが。
「お母さんは優しかった。どうして、アンナとお父さんを置いて東京に行ったの?」
「とても大変な事情だ。そのことでお母さんを恨んではいけない。アンナのことはとても大切に思っていた」
会話が終わった。
事故に遭って五年。ようやくユキオの生活が上向いてきた矢先のことである。アンナにの突然の病が起こり、再びどん底に突き落とされた。さすがに人の良いユキオも神を呪いたい気持ちだったが、神を呪わず、代わりに毎日、娘の病気が良くなるように祈りを捧げた。だが病気がだんだんとひどくなる一方だった。
アンナが「お母さんに会いたい」と繰り返すようになった。
枕元に一枚の写真がある。三人映っている。幸せであった頃の写真だ。アンナはその写真をどこかで見つけ、ずっと大切にしていたのだ。そのことを決して口にしたことがなかったが、母親が恋しくてたまらないのであろう。
十二月になった。
ユキオは数か月に一度リカの母親に会いに行っている。わずかばかりの食料品を携えて。
リカは海沿いの借家に住んでいる。狭い土地に肩を並べるように安っぽい民家が並べているところである。住民はみな貧しい高齢者。若い人はほとんどいない。そんな中でもリカの母親はひときわ老いが目立っている。七十歳を超えたが、その顔は皺くちゃだらけで背中も哀れなくらい曲がっている。ずっと一人で暮らしている。傍らには老いた犬がいる。
「娘のリカが戻ってきている」と母親が呟くように言った。
「噂は聞いています」とユキオは答えた。
「あの子も不器用だよ。本当は真っ先に娘に会いたいのに、会いに行かない。ユキオさん、娘を許してくれるかい? やっぱり無理だよね。捨てた女を許すなんて虫のいい話だもの。ただ魔が差しただけなんだ」
リカが再び、この町に戻ってきたことを人伝に聞いていた。彼女が駆け落ちした男はろくでなしだった。表の顔と裏の顔の落差が大きいひどい男だった。女を食い物にして生きているダニのような男だった。女にさんざん貢がせて用がなくなると、まるでゴミみたいに簡単に捨てる。リカも、結局、昼夜を問わず働かされた。まだ三十代というのに四十過ぎのオバサンのような風貌なっていると聞いた。
「会いに行ってほしいと言ったら怒るよね。虫が良すぎる話だと思うけど、リカは独り寂しくA町にいる」と言った。
会話は終わった。A町は遠い昔、ユキオとリカが暮らしたところだ。娘のアンナが生まれたところでもある。
そこは街で一番大きな病院の一室である。ベッドには少女が横たわっている。十歳になるアンナだ。手術をしなければ、少女に残された時間はほんの僅かだ。手術が成功するかどうかも分からない。少女もそのことを薄々気づいていたが、決して口にしなかった。余計な心配を、付き添っている父親ユキオにさせたくなかったからである。実にいい父親である。取り柄はただコツコツと真面目に働くことだけである。
「雪だ」とアンナはか細い腕を出して窓の外を指差した。
「十二月になったから、雪が降ってきてもおかしくない」
「そうだね。もうじきクリスマス……」とアンナは呟いた。
言った後で、何か気まずいことを言ってしまったような顔をした。
「クリスマスプレゼント、何がいい?」
「何もいらないよ」
アンナは知っていたのである。父親が生活するだけで精いっぱいなことを。
「洋服でも買おうか、アンナがピンク色の服でも」とアンナを見つめると、アンナは微笑んだ。その笑顔が作っているもので、少し強張っている。さすがのユキオも気づいたが、何も言えなかった。ただおうむ返しのように微笑むだけ。
昔、ユキオは妻リカと仲睦まじく暮らしていた。娘のアンナが生まれたとき、夫婦は幸せの絶頂だった。が、娘が二歳になったとき、ユキオは突然交通事故に遭い片足失った。夜道を歩いていたとき、後ろからはねられたのである。事故を起こしたのは二十代の若者だった。その日暮らしをしているような輩で十分な補償は払えなかった。その時から、幸せな一家の歯車が狂ってしまった。
何もかもうまくケースは稀にしかないが、逆に何もかもうまくいかないケースは珍しくもない。ユキオの一家もそんな何もかもがうまくいかなかったケースだ。ユキオは片足を失ったせいで長年勤めた会社を辞めるはめになった。そのうえ、目いっぱいローンを組んだ家も手放す羽目になった。ユキオ以上に事故の犠牲となったのは妻のリカであった。幼子を育て、ユキオを看護し、そしてパートの仕事をした。無理を重ね、肉体的にも精神的にも追い詰められた。
誰にも心の隙間が生じる。そんな隙間を満たしてくれる人がいたら、きっと心を揺り動かされるに違いない。リカの場合もそうだった。 何もかもに疲れ果てたとき、一人の青年が目の前に現れた。遠い昔、少女の頃に夢見たような若者だった。ある夜、二人は近くの蛍の里に出かけた。蛍の幻想的な光に照らされて、互いにただならぬ近さを感じた。そのとき、リカは気づいた。この近さは危ないと。すぐに離れようとしたが、若者は許さなかった。若者の熱い情熱がリカを襲った。リカは拒まなかった。むしろ、心のどこかでそれを望んでいたことに気づいた。リカは夫と幼い娘を捨てて、若い男と駆け落ちをしたのは、その数日後であった。ユキオはリカが駆け落ちしたことに対して何の感情も生まれてこない自分が不思議だった。むしろほっとしたというのが実感であった。なぜほっとしたのか。地獄のような生活で喘いでいる彼女を見るのが忍びなかったのである。心のどこかが彼女が消えることを願ったのかもしれない。それゆえ、他の男と逃げたのを責める気にはなれなかったのである。ただ不憫なのは何も知らないまま取り残された娘だった。
リカが出ていったとき、アンナが「お母さん、どこに行ったの?」と聞いたので、
「遠くに行った」とだけ答えた。
理由をあいまいにしたまま、「用があって、東京に行った」と言い続けたしばらくして娘は母親のことを聞かなくなった。それから五年の歳月が過ぎた。
病院に入った一週間後のことである。突然、母親に会ったと言い始めた。分かれた当時は五歳だった。あれから五年の月日が流れている。もう忘れているはずなのに。
「近くの公園で、友達と遊んでいたら、大人の女の人にぶつかって転んだの。そしたらその人が起こしてくれた。その人、お母さんに似ていた。お母さんと同じいい匂いがしたから、間違いじゃない」と言い張った。
ユキオは思い出した。リカは黒くて長い髪を大切していた。その長い髪を洗った後、シャンプーのいい匂いが仄かにした。娘はそのことを鮮明に覚えていたのであろう。
「お母さんに会いたい。お母さんに会ったらいろんな話をしたい」と娘はポツリとつぶやいた。
「もう会えない。会えるはずはない」とユキオは言えなかった。
「ねえ、お父さん、あの人は本当のお母さんじゃないの?」
ユキオは首を振った。
「どこにいるの?」
五歳の頃の娘との会話をユキオは思い出した。
「東京にいる。わけがあって、ずっと東京で暮らしている」
東京で暮らしていることは風の便りに聞いていた。駆け落ちした相手と今に一緒にいるかどうかは分からなかったが。
「お母さんは優しかった。どうして、アンナとお父さんを置いて東京に行ったの?」
「とても大変な事情だ。そのことでお母さんを恨んではいけない。アンナのことはとても大切に思っていた」
会話が終わった。
事故に遭って五年。ようやくユキオの生活が上向いてきた矢先のことである。アンナにの突然の病が起こり、再びどん底に突き落とされた。さすがに人の良いユキオも神を呪いたい気持ちだったが、神を呪わず、代わりに毎日、娘の病気が良くなるように祈りを捧げた。だが病気がだんだんとひどくなる一方だった。
アンナが「お母さんに会いたい」と繰り返すようになった。
枕元に一枚の写真がある。三人映っている。幸せであった頃の写真だ。アンナはその写真をどこかで見つけ、ずっと大切にしていたのだ。そのことを決して口にしたことがなかったが、母親が恋しくてたまらないのであろう。
十二月になった。
ユキオは数か月に一度リカの母親に会いに行っている。わずかばかりの食料品を携えて。
リカは海沿いの借家に住んでいる。狭い土地に肩を並べるように安っぽい民家が並べているところである。住民はみな貧しい高齢者。若い人はほとんどいない。そんな中でもリカの母親はひときわ老いが目立っている。七十歳を超えたが、その顔は皺くちゃだらけで背中も哀れなくらい曲がっている。ずっと一人で暮らしている。傍らには老いた犬がいる。
「娘のリカが戻ってきている」と母親が呟くように言った。
「噂は聞いています」とユキオは答えた。
「あの子も不器用だよ。本当は真っ先に娘に会いたいのに、会いに行かない。ユキオさん、娘を許してくれるかい? やっぱり無理だよね。捨てた女を許すなんて虫のいい話だもの。ただ魔が差しただけなんだ」
リカが再び、この町に戻ってきたことを人伝に聞いていた。彼女が駆け落ちした男はろくでなしだった。表の顔と裏の顔の落差が大きいひどい男だった。女を食い物にして生きているダニのような男だった。女にさんざん貢がせて用がなくなると、まるでゴミみたいに簡単に捨てる。リカも、結局、昼夜を問わず働かされた。まだ三十代というのに四十過ぎのオバサンのような風貌なっていると聞いた。
「会いに行ってほしいと言ったら怒るよね。虫が良すぎる話だと思うけど、リカは独り寂しくA町にいる」と言った。
会話は終わった。A町は遠い昔、ユキオとリカが暮らしたところだ。娘のアンナが生まれたところでもある。