紫音の夜 1~3
『コズミック・ジャズ・フェスティバル』は、夢でも立てないブルー・ノートのステージにアマチュアのプレイヤーが上がれる、またとないチャンスだ。
真っ青に輝くステージ。マイクを持って立つ葉月の隣に、アルトサックス奏者が立っている。
純度の高い音に酔いたくて集う観客たちが、歌声とサックスの音色に包まれる――
全身の血が勢いよく流れ始める。
心臓の音が漏れ出すのではないかと思うほど、体が激しく脈打つ。
葉月はマイクを胸に当てて、ぐっと息を飲んだ。
「やっ……やります!」
伶次の口元に笑みが浮かび、高木はドラムを叩き鳴らした。
真夜はというと、例の大げさなおじぎをくりかえしていた。
その行動が本気なのかどうか、茫洋としていてつかみづらい男だと思った。
伶次は笑ってハイタッチを求めてきた。
こんなに上機嫌な彼の姿を見るのは初めてだった。
無表情でウッドベースを抱え、譜面と睨みあっているイメージがどうしても強い。
「バンド名は『ナイツ』だったんだけど、真夜が嫌だって言いだして今は無名なんだ」
伶次の言葉に、真夜が首を伸ばした。
「やっぱり僕が提案したのにしましょうよ。『RAGE』って怒りが伝わりそうでかっこいいでしょ」
「いやだ。だいたい、誰に対して怒ってんだよ」
「じゃあ『ハイ・トゥリー』でもいいです」
両腕を広げて木の真似をする真夜に、伶次は「いいんじゃない」と言って笑った。
高木は苦々しい顔つきをしてつぶやいた。
「かんべんしてくれ、そんなヤバい薬みたいなバンド名」
地下の練習室にテナーサックスを残し、葉月は合宿場の表玄関に出た。
胸につまった空気を吐き出して、新鮮な酸素を思いきり吸いこむ。
何度か腕を回すうちにようやく肩の緊張がほぐれ、脱力したまま階段に腰を下ろした。
この一帯に広がる高原は冬になるとスキーのゲレンデとして使用するらしく、合宿場も一階にはスキー客用の出入り口があり、表玄関は階段を上がった二階にある。
練習室のほとんどは地下と一階にあり、二階と三階が宿泊施設になっている。
足を組んで空を見上げる。
暗幕の上に銀色の砂粒を散らしたように、無数の星がきらめいている。
八月の上旬といえども山頂に近い高原の夜風はひんやりと冷たい。
強い風が吹くと、ショートボブの髪が揺れ、手のひらで両腕をこすった。
背後で自動販売機が音を立てる。夜中の三時に起きていそうな部員を思い出そうとしていると、黒のタンクトップに着替えた真夜がひょっこりと姿を見せた。
「こんばんは」
つい先ほど会ったばかりなのに変な挨拶だな、と思った。
真夜は両手に缶ジュースを持って立っている。
彼が背中から浴びている自動販売機の逆光が眩しかった。
「さっきは大変だったね」
目の前に缶ジュースをさし出され、ありがとうとつぶやくと、真夜は葉月のとなりにちょこんと腰を下ろした。
猫背がよりいっそう曲がる。
タンクトップから伸びる腕は白くて、腰回りは自分より細いのではないかと思った。
真夜は缶のプルトップを引き上げると、すするようにしてジュースを口に含んだ。
「僕のときもああだったんだ。伶次さんと高木さんが二人で高校に遊びに来ててね。『あっいたいた、こいつですよ。高木さん、一曲やってみません?で、僕は下手だから嫌だって言ったんだけど、この通り強引にね」
真夜がやってみせた伶次の口真似は全く似ていなくて、それがよけいに面白さを引き立てていた。
葉月が笑うと、彼はえへんと咳をして伶次の物真似をいくつか披露した。
葉月は笑いながら、もらった缶ジュースを手のひらの上で転がした。
「アルトサックスを初めて、もうずいぶん経つの?」
「八年目になるけど、ほんとに大したことないんだ。あの二人の足元を転がってばっかりだよ。篠山さんは?」
「私はまだ二年目。ライブが近づくたびにソロに四苦八苦してるの」
「カウント・ベイシーの曲はテナーサックスのソロが多いからね。2ndテナーなんて拷問に近いよね。最初のうちは、練習あるのみだよ」
真夜は缶ジュースをサックスに見立てて吹く真似をし始めた。
「大学ではビッグバンドに入ってるの?」
「ううん、僕の大学は規模が小さいからコンボだけなんだ。ビッグバンドはたまにエキストラで参加させてもらうくらいかな。伶次さんのコンボは四年目になるよ。飽き性の僕には最高記録」
突然、言葉が途切れてしまった。
まだ会話に続きがありそうな気がしたのでしばらく待っていたが、真夜は夜空を凝視し続けた。
「どうしたの?」
「星が……」
つぶやくように言うと、闇の中に飛び出していった。
どう見ても足のサイズに合っていない他人のサンダルを鳴らしながら、ゆるい斜面を駆け上がっていく。
葉月も宿のものと思われる古い下駄を足にひっかけて、あとを追った。
真夜の背中を見ながら足を進めた分だけ、あたりの闇が濃くなっていく。
舗装された坂道の向こう側にはどこまでも山の斜面が続いている。
湿っぽい地面を踏みしめるたびに、夏草の息吹が立ち上ってきた。
真夜が小さな声をあげて腕をふり上げた方角を見ると、山影のすぐ上に星が流れた。
息をつく間もなく、無数の星と星の間をぬうように、銀色のか細い糸のような流れ星が落ちてゆく。
お互いが指をさした方角とは別のところに、次から次へと流れ星が姿を現す。
「すごいなあ。流れ星に十個お願いごとができたら、宿に帰ろうかな」
そう言って真夜は地面に寝転がった。
隣に腰を下ろしながら「けっこう欲深いのね」と言うと、彼は両腕を大きく広げて言った。
「当然だよ。僕なんて欲まみれでそのうち燃え上がっちゃうよ」
全身の力を抜いているのがうらやましくなって、葉月も仰向けに寝そべった。
地面についた肘や背中にあたる小石がどうにも痛かったが、汚れることへのためらいをぬぐい捨てて後頭部を土につけてみた。
重力から解放されたように体が軽く、土は意外に温かかった。
一度閉じた瞳をゆっくりと見開き、葉月は息を飲んだ。
視界のすべてが満天の星空に支配されている。
手をのばせば、濃紺の空に散らばり輝く星々をかきまぜることさえ出来そうだった。
目が慣れてくると、あたりは真っ暗闇ではないことに気づいた。
視界の端に映る山の稜線とスキー用リフトの輪郭の方が黒々としていて、空は明るかった。
真夜とのあいだを遮るものは何ひとつなかった。
小さなため息をついたその時、特大のほうき星が夜空の真ん中に現れた。
ほうきの部分に何百もの銀の粒をまといながら、五秒かけてゆったりと大空を横切っていく。
弧を描くほうき星の軌跡から天空は半球型をしているのだと思い知らされる。
「お願いごと十回分はあったなあ」
そうつぶやいた真夜の指先が、葉月の手にふれた。
頭を動かして彼を見たが、何の反応もなく夜空を見上げたままだった。
少し胸が鳴って、なぜか伶次の顔が浮かんで消えて、そのままにしておいた。
指を伝って、真夜の思考が流れこんできたのかもしれないと思った。