ガラスの雨ともう一度
ボッ、カッ、カッ、シュッ、シュッ。
来る日も来る日も静かな音が木霊する、町の端の館に、ガラスの職人が一人。いや、俺独り。
町の奴らは、誰一人として俺の名前を知らない。もう何十年も、館の外に出たことも、話したことも無いから。そして俺もまた、自分の名前を知らない。忘れてしまったのだ。もう永いこと、誰かに名を名乗らなかった。名乗る必要は無かった。
俺の毎日に、名前は必要無い。俺の毎日には、ガラス細工の道具と、材料だけが要る。遠い昔は食事や睡眠が絶対必要だったが、いつのタイミングだろう、それらを体が欲さなくなっていた。最後に物を口にしたのは、50年程前だっけか。
人とは会わなかったが、淋しくは無い。館の一角には、自分のお気に入りの作品が並んでいるから。五月蝿く口出したり、うっかり俺の傑作を落として粉々にする様な人間達と関わるより、ずっとまし。人には見せなくて良い。俺だけの世界だ。
ボッ、カッ、カッ、シュッ、シュッ。
その日も俺は、いつもの様にガラス細工の兎に没頭していた。と、
——パリン!
冷たく白い塊が、窓を砕いて飛び込んで来た。頭上から、甲高い音を立ててガラスの雨が降り注ぐ。
「!」
ガラスの破片は俺の中を素通りして、床を叩いた。雪玉に続いて、窓から覗く女子(おなご)の顔。
「ごめんなさい!」
頭の左右の高い位置で、真っ黒の髪を結んでいる。だがその髪の所々、サクランボの様な赤色が入っているのは、お洒落のつもりなのだろうか。目の覚める様な桃色の、光沢の有る上着を羽織っていいる。随分と派手な風貌だが、今の世の中の女子の格好はこれが普通なのかも知れない。
女子は割れた窓から、重力等無いかの様に館に進入して来た。
「すみません、あたしが割りました。怪我してませんか?」
別にガラスが割れた所で、俺が困る事は一つも無い。窓がどうなっていようが、寒さなんてものは感じないし、床のガラスは溶かして作品にしてしまえば良い。それに——
「ガラスを触れることは出来るけど、刺さることは無いんですね?それは良かった!」
ぎょっとして女子を見る。目が異常に開いて口が三日月型の、不気味な笑顔が目に入った。背筋がぞくりと震える。
何故分かる?そう聞こうとしたが、普段喋らない所為で声が上手く出ない。それを最初からお見通しだったかの様に、女子が口を開く。
「大丈夫、貴方は心の中で喋って。ちゃんと聞こえるから」
これは夢か?目を擦る。女子の姿が消えない。何なんだ?こいつは何故俺の思考を悟る?それに心の中で話せば聞こえる、だと?
信じた訳では無い。試しに、「話しかけて」みる。
“じゃあ——名前は?”
「名前?無いよ。貴方と同じで』
ちゃんと話が噛み合っている。
“無い訳じゃない。忘れたんだ”
「あら、信じたのね、この不思議な現象。ひょっとしたらあたしが、貴方の言うことを事を予想しているだけかもよ?」
女子はさも可笑しそうに俺を見る。何とでも思え。別にもう疑う意味は無いのだ。だって——
「そうだよね。こんな会話法より、貴方自身の方がよっぽど謎だもんね」
図星をつかれた。
“お前、何でそんなに俺の事を知っている?教えてくれ。お前は誰なんだ?俺は?”
数秒間、女子は笑顔のまま言葉を発さなかった。
「・・・知りたいの?」
“別に。随分何でも知っているな、と思っただけだ”
「ふぅん、そうなんだ。じゃあ、自己紹介させて貰うね」
ボッ、カッ、カッ、シュッ、シュッ。俺は作業に戻り、古い木の椅子に女子を座らせる。が、女子は直ぐに席を立つ。
「あたしには、さっき言った通り名前は無いんだけどね。でも、皆はあたしのこと——」
部屋が急に暗くなった。途端、
——ドォォン・・・
窓の外に、白い閃光が走る。思わずガラスの無くなった窓を見た。雷?そんな馬鹿な。さっきまであった窓ガラスは、柔らかい日光を床に切り取っていたのに。と、部屋の隅で小さくなっている女子が目に入る。
“おい、大丈夫か?”
べつにこいつが雷に怯えようが俺のガラス細工には関係無いが、取り敢えず声を掛ける。
「・・・・・・」
女子は何も答えない。
“・・・俺は作業に戻るからな”
言って踵を返した瞬間、
「ちょっと待ってよ、ほら見て!」
振り向いた俺の目に飛び込んで来たのは。
翼と角と尾。
分厚い上着や短いスカートを突き破って、それらはゆらゆらと動いている。
“な・・・”
「凄いでしょう?皆、あたしのこと」
焦点の合わない目を細めて、さっきまで女子だった誰かは笑う。
「悪魔って呼ぶよ!」
来る日も来る日も静かな音が木霊する、町の端の館に、ガラスの職人が一人。いや、俺独り。
町の奴らは、誰一人として俺の名前を知らない。もう何十年も、館の外に出たことも、話したことも無いから。そして俺もまた、自分の名前を知らない。忘れてしまったのだ。もう永いこと、誰かに名を名乗らなかった。名乗る必要は無かった。
俺の毎日に、名前は必要無い。俺の毎日には、ガラス細工の道具と、材料だけが要る。遠い昔は食事や睡眠が絶対必要だったが、いつのタイミングだろう、それらを体が欲さなくなっていた。最後に物を口にしたのは、50年程前だっけか。
人とは会わなかったが、淋しくは無い。館の一角には、自分のお気に入りの作品が並んでいるから。五月蝿く口出したり、うっかり俺の傑作を落として粉々にする様な人間達と関わるより、ずっとまし。人には見せなくて良い。俺だけの世界だ。
ボッ、カッ、カッ、シュッ、シュッ。
その日も俺は、いつもの様にガラス細工の兎に没頭していた。と、
——パリン!
冷たく白い塊が、窓を砕いて飛び込んで来た。頭上から、甲高い音を立ててガラスの雨が降り注ぐ。
「!」
ガラスの破片は俺の中を素通りして、床を叩いた。雪玉に続いて、窓から覗く女子(おなご)の顔。
「ごめんなさい!」
頭の左右の高い位置で、真っ黒の髪を結んでいる。だがその髪の所々、サクランボの様な赤色が入っているのは、お洒落のつもりなのだろうか。目の覚める様な桃色の、光沢の有る上着を羽織っていいる。随分と派手な風貌だが、今の世の中の女子の格好はこれが普通なのかも知れない。
女子は割れた窓から、重力等無いかの様に館に進入して来た。
「すみません、あたしが割りました。怪我してませんか?」
別にガラスが割れた所で、俺が困る事は一つも無い。窓がどうなっていようが、寒さなんてものは感じないし、床のガラスは溶かして作品にしてしまえば良い。それに——
「ガラスを触れることは出来るけど、刺さることは無いんですね?それは良かった!」
ぎょっとして女子を見る。目が異常に開いて口が三日月型の、不気味な笑顔が目に入った。背筋がぞくりと震える。
何故分かる?そう聞こうとしたが、普段喋らない所為で声が上手く出ない。それを最初からお見通しだったかの様に、女子が口を開く。
「大丈夫、貴方は心の中で喋って。ちゃんと聞こえるから」
これは夢か?目を擦る。女子の姿が消えない。何なんだ?こいつは何故俺の思考を悟る?それに心の中で話せば聞こえる、だと?
信じた訳では無い。試しに、「話しかけて」みる。
“じゃあ——名前は?”
「名前?無いよ。貴方と同じで』
ちゃんと話が噛み合っている。
“無い訳じゃない。忘れたんだ”
「あら、信じたのね、この不思議な現象。ひょっとしたらあたしが、貴方の言うことを事を予想しているだけかもよ?」
女子はさも可笑しそうに俺を見る。何とでも思え。別にもう疑う意味は無いのだ。だって——
「そうだよね。こんな会話法より、貴方自身の方がよっぽど謎だもんね」
図星をつかれた。
“お前、何でそんなに俺の事を知っている?教えてくれ。お前は誰なんだ?俺は?”
数秒間、女子は笑顔のまま言葉を発さなかった。
「・・・知りたいの?」
“別に。随分何でも知っているな、と思っただけだ”
「ふぅん、そうなんだ。じゃあ、自己紹介させて貰うね」
ボッ、カッ、カッ、シュッ、シュッ。俺は作業に戻り、古い木の椅子に女子を座らせる。が、女子は直ぐに席を立つ。
「あたしには、さっき言った通り名前は無いんだけどね。でも、皆はあたしのこと——」
部屋が急に暗くなった。途端、
——ドォォン・・・
窓の外に、白い閃光が走る。思わずガラスの無くなった窓を見た。雷?そんな馬鹿な。さっきまであった窓ガラスは、柔らかい日光を床に切り取っていたのに。と、部屋の隅で小さくなっている女子が目に入る。
“おい、大丈夫か?”
べつにこいつが雷に怯えようが俺のガラス細工には関係無いが、取り敢えず声を掛ける。
「・・・・・・」
女子は何も答えない。
“・・・俺は作業に戻るからな”
言って踵を返した瞬間、
「ちょっと待ってよ、ほら見て!」
振り向いた俺の目に飛び込んで来たのは。
翼と角と尾。
分厚い上着や短いスカートを突き破って、それらはゆらゆらと動いている。
“な・・・”
「凄いでしょう?皆、あたしのこと」
焦点の合わない目を細めて、さっきまで女子だった誰かは笑う。
「悪魔って呼ぶよ!」
作品名:ガラスの雨ともう一度 作家名:青木 紫音