キツツキ、翔んだ
こんどこそぼくは本気でそう決心した。門にむかって歩きはじめると、すぐにどっと汗が流れはじめた。足がガタガタふるえて、吐き気がした。あっ、森じゅうの木が、いっせいに倒れてくる!
ぼくはあきらめて、うちへもどった。
ぼくは夢をみていた。
大きな卵のなかにいるのは、恐竜ではない。コゲラになった小さなぼくだ。
コツコツコツ、コツコツコツ。
ぼくはいっしょうけんめい、くちばしで殻を破ろうとするのだが、卵はかたくて外に出られない。
いや、卵がかたいんじゃない。ぼくに力がないのだ。
コツコツコツ、コツコツコツ……。
となりの部屋をノックする音で、目がさめた。
となりは坂口さんの寝室だった。なんだ、帰ってたのか。でも自分の部屋のドアをノックなんてするもんだろうか?
ぼくは壁に耳をつけてみた。
ぼそぼそ話し声がする。やっぱり、坂口さんのほかに誰かいるのだ。でも、めずらしい。このうちにお客が来るなんて。
もっとよく声を聴こうと、ぼくは廊下にまわった。
となりの部屋のドアはかすかに開いていた。
部屋には、ナイトガウンを着た坂口さんと、女の人が一人。
蓮見さんだった。
「あの子をどうするつもりなの?」
蓮見さんはしゃべっていた。
「べつにどうこうするつもりはない」
坂口さんは苦りきった表情で答えた。
「だったら、なぜこのうちにとじこめておくのよ」
「べつにとじこめてなんかいない。ここにいるのも出ていくのもあの子の自由だ」
どうして蓮見さんがこんなところにいるのか、ぼくにはわからなかった。だけど「あの子」というのは、どうやらぼくのことらしかった。
「あの子は、このうちから外へ出られなくなってしまったのよ。どうして?」
「そんなこと、わたしにはわからん。おまえこそ、人の心配ばかりしているが、これからどうするつもりなんだ」
「働くわ」
「おまえはわたしの会社を継ぐ。それが学費を出す条件だったはずだ」
「あの子の家庭教師をただで引き受けたのも、あなたに学費を出してもらっている引け目があったからよ。だけど、それももう終わり。申し訳ないけれど、あなたの会社を継ぐ気はもうないの」
「大学はどうする気だ?」
「休学する。働いて、これまでかかった学費は返すわ。当面の生活費が貯まったら、奨学金をもらって、また大学に戻るつもりよ」
「誰の世話にもならないというわけか。似ているな、やはり」
坂口さんはくりかえした。
「似ているんだよ。わたしもおまえもあの子も」
「似ていないわ。それぞれ別の人間よ」
「あの子には、誰かに好かれようとする気がない。誰かに甘えようとする気もない。そこがわたしは気に入った」
「やっぱりなにか考えているのね。あの子をどうするつもり?」
「わたしの会社の一つを継がせるつもりだ。なに、この敷地の外に出られなくても、ちっとも構わない。必要なことは、ぜんぶ秘書がやってくれる」
つぎに蓮見さんの口から出てきたのは、とんでもない言葉だった。
「少しも変わってないわね、お父さん。お母さんがでていったわけがよくわかるわ」
ぼくは、ガーンと頭をなぐられたようなショックを受けて、ふらふらと立ち上がった。それでも、二人から目を離すことができなかった。
やがて、蓮見さんは言った。
「ひとりぼっちのさみしいお父さん。もうここへは来ないわ」
「そうかもしれん」
坂口さんは弱々しく笑った。
「わたしは、おまえたちのかわりが欲しかったのかもしれないな」
あくる朝、ぼくがコゲラの巣をながめていると、門の外から蓮見さんがやってきた。
「あのひなが」
ぼくは蓮見さんをふりかえった。
「飛ぼうとしないんだ」
コゲラのひなは、あいかわらず巣の中にいた。
「ずっと見てるのに、飛ぼうとしないんだよ」
「そう」
蓮見さんは、哀しそうに目をふせた。
「きょうはね。さよならをいいにきたの」
「そうか。さよなら、か」
「きいてたでしょ。きのう」
「うん」
「べつにかくすつもりじゃなかったんだけど、ごめんね。あたし、大学を休学して働くの」
「せっかく行ったのに。好きなんだろ。石ころが」
「でも、もうがまんできないもの。これまであの人のお金で通ってたんだけど……。働いてそのお金も少しずつ返すの。だから、もうここへは来ないよ」
「そうか。じゃあ、さよならだね」
「ええ。さよなら」
そう言い残すと、蓮見さんは門から外へ出ていった。
もういちどぼくは、コゲラの巣を見上げた。そのときだ。
「あ!」
飛べなかったひな鳥が、巣穴から飛び立つところだった。
ひな鳥はすっと地面に落ちかけたが、すぐに、元気よくはばたいた。うれしそうに巣のまわりを飛びまわっている。
「蓮見さん!」
このことを蓮見さんに知らせたくて、ぼくは走った。
「飛んだ! 飛んだよ!」
そしていつのまにか、ぼくは出ていたのだ。あの門の外へ。どうしても出ることができなかったあの門の外へ。
あたりまえのことだけれど、そこに鬼や悪魔なんていなかった。蓮見さんの姿もない。
ただ、陰気な灰色のコンクリートの塀だけが、どこまでも続いていた。