社会批評
歴史を学ぶ意義
人間に与えられているのは、厳密に自分の人生のみである。他人の人生も与えられていると言われるかもしれないが、それは伝聞の域を出ず、他人の人生について体験の質は伴わない。繰り返すが、人間に与えられているのは、自分の唯一の人生のみである。だが、もう一度他人の人生について考えてみよう。それは確かに実体験することはできないが、現実を正しく指示しているという点においては自分の人生と同じではないだろうか。自分の人生も他人の人生も、正しく現実に対応しているという意味では類似している。そこに体験の質が伴うかどうかの違いだけである。
そして、この現実に正しく対応しているという点が、人間の実践的な次元で極めて重要になってくる。人間は、自ら行為し、その結果を反省し、成功や失敗などと評価し、次の行為に結び付けていくのである。この場合、行為と結果は現実のものでなければならない。いくら小説に登場人物の成功や失敗が書かれていようと、それを参考にして自らの行為を決めることは適切でない。なぜなら、小説に書かれていることは現実を指示していない虚構に過ぎないからである。小説では現実を支配する法則が一定程度無視されるので、現実に行動するにあたっての指針を決定するうえで参考にならないのである。
ところで、歴史もまた他人の人生の一種である。人間は他人の人生の失敗や成功から学ぶことができるのと同じように、歴史の顛末からも自分の行為をどう導いていいかどうか学ぶことができる。なぜなら、歴史もまた虚構ではなく現実を指示するものであるからだ。人間が自ら行為するにあたってどのような倫理指針に従うか、それを決定するにあたって、まずは自分の人生が参照され、さらに他人の人生も参照され、歴史もまた他人の人生と類似するものとして参照される。なぜなら、自分の人生も他人の人生も歴史も、すべて現実を指示するものであり、現実を支配する法則がそこに反映されているからだ。
さて、ほかの情報についてはどうだろうか。例えば政治学の本は、政治についての理論を述べこそすれ、人生について直接書かれたものではないので、人間の実践的判断の基にはならない。あくまで、人間の実践的判断を導くのは、人生における行為と結末について書かれたものでなければならない。その点で数々の理論書や思想書は直接的には人間の日常の実践には役に立たない。人生における行為と結末について書かれたもので、なおかつ現実を正しく指示しているのは、ノンフィクションや歴史くらいのものなのである。
だからもちろん、歴史を学ぶと言ったとき、そこで学ぶのは大きな事件の羅列ではなく、そこで実際に動いた人々の人生なのである。もちろん、大きな事件の羅列から学べることもあると思うが、人間の実践を導く上で指針となるものは、歴史上の人物の実際的な行動とその結末であり、我々はそれを学ぶことで、自らの人生の指針とすることができる。