賞味期限切れ
『賞味期限切れ』
そこは繁華街の片隅にあるバー。さほど流行っているわけではないが、休日ともそれなり混んでおり、どうにか店は維持している。
実質的に店を仕切っているのは明美だ。ママを補佐する立場でもある。店に勤めてあれこれと五年経つ。一時のつもりで働き始めたのだが、いつの間にか五年が経ってしまったのである。五年間の間に女の子たちもすっかり入れ替わった。
最近、沙織という二十になった女の子が入った。彼女はつい最近失恋したばかりだという話をした。すると、明美は諭すように「気を落とさないで。人生なんかどうにでもなるものよ」と言った。
明美はもう四十を越えている。かつては絶世の美女とまで言う人もいたが、もう小じわを隠せない。笑うたびに目のあたりにたくさんの皺ができる。そのうえ、下腹部の弛みもはっきりと分かる。
「その男と結婚したいと思うほど惚れたんだ」と羨ましそうに言うのは妙子。三十五を過ぎた彼女の化粧は濃い。歳を追うごとに濃くなっていく。今では、まるで仮装パーティにでも参加するのかと聞きたくなるほど濃い。
「死にたいほど好きだったんです」と沙織は涙を浮かべた。
「いいな、そんな恋なんか、遠い昔に忘れた」と妙子が呟くと、
「自分から捨てたんじゃないの。どこかのドブ川にでも」と酔っぱらった静香が言う。
「うるさいわね。黙っていてよ。沙織さん、よくお聞き、夜の商売にどっぶりつかったら、いい男は見つからないわよ。私たちが見本よ、ねえ、明美さん?」
「そんなことはないわよ。その気になれば、いつでも作れるわよ」と明美が微笑む。
「そうですよ。明美さんほど綺麗なら、いるはずだし、今はいなくとも、たくさんの相手を見つけることができます」と沙織が慰めるかのように言う。沙織は空気も読めないしものの言い方を知らない。
明美は「あんたに慰めてもらうことはないのよ」と笑いながら沙織を見る。その眼は決して笑っていない。笑っていないばかりか、怒っている目だ。
「ごめんなさい。別にそんなつもりじゃなかったの。本当にごめんなさい」と沙織は恐縮する。
明美は思い出したように、「そうそう、この前、一緒に歩いていた男。背が高い。まるでバスケット選手みたいな男、あれが、その彼氏だったの?」
「いえ、彼氏なんて……」
「でも、一緒にラブホテルに入ったわよね」と明美は笑った。
沙織はその時のことを思い出した。そうだ、よくは分からなかったけど、ホテルの入り口ですれ違ったカップルがいた。あれは明美ではなかったか! 一緒にいたのは、確か中華屋の腹の出たガマガエルのような店主。実をいうと、明美は数年前からガマガエルと愛人関係にあった。最初は金のため。でも、今では……
「ねえ、どんなふうに彼は抱くのかしら? 後ろから、それとも前から」
明美が執拗に沙織を問い詰める。
「どんなって……そんなにしていません」
「でも、一回じゃないわよね。きっと十くらいしているでしょ? この店にずっといたいなら、嘘はつかないことね」と明美が意地悪そうににらむ。
「後ろからです」と沙織は赤面しながら答えた。
明美は思わず想像した。若い男が虎のような覆い被さるさまを。それに引き替え、自分は惨めだとも思った。お金につられて関係を結んだ中華屋の主人は、肝心なときに立たないことが多い。この前もそうだった。それを、中華屋の主人は「 魅力がないから立たない。お前とは別れる」と責め立てる。部屋を出るとき、手切れ金を投げつけた。屈辱的だった。もう十歳若かったなら、自分から別れを切り出したであろう。でも、もう四十。とっくに旬の時期を過ぎたことは自分でも分かっていた。手に職があるわけでもない女がそれなりの贅沢をしようと思ったら、男にすがって生きるしかないのだ。明美はそのことが十分に分かっていた。彼が一人で部屋を出ようとしたとき、「捨てないでよ」と泣いてすがった。独りぼっちになることを恐れたからだ。明美には、もう中華屋の主人しかいなかったのである。二十代の頃から星の数ほどの男が寄ってきたのに。今の沙織なんか足元に及ばないほど綺麗だったのに。みんな遠い昔の話になった。
明美の数少ない友達の京子がいる。彼女もシングルだ。だが明美と違うのは、昼間の仕事をしているというところだ。
「最近、セックスの夢を見なくなった」と京子が煙草を吸いながら言った。
「明美は夢を見ることがある?」
明美は照れ臭そうに首を振った。
「そうよね。十七、八の小娘じゃあるまいし。セックスも縁遠くなった。仕事をしているとき、ふいにガラスとかに映る自分の姿を見て驚くの。顔は皺だらけ、お腹もぽっこりと膨らんでいる。このままで死んだなら、何が残るのかって考えてしまって……胸が締め付けられるほど苦しくなる…明美はない?」
「ない」
嘘を言った。自分と全く同じだった。ただ、京子は友達だが、彼女と同じ位置にはいたくなかったのだ。
「そう、じゃ。好きな男がいるんだ」
明美の脳裏にすぐにガマガエル姿の中華屋の主人が浮かんだ。違う、あんな奴が恋人のはずがない。あれは金だけの関係で結ばれた男。
「好きな人がいない。いたら……」
「いたら……何?」
「何でもない?」
「明美って、いつもそうよね。そうやって自分を作っている。自分を見せないようにしている。自分をさらけだすのが怖いのね」と京子は笑った。
一緒に明美も笑った。ここは笑うしかないと思ったのである。
「そうなの。私は臆病なの。本当の自分をさらけだせないよ。生まれ持っての性分よ。どうしょうもない。でも、一つだけ本当のことを教える。私はまだセックスをしている」
「本当に?」と京子は驚きの声をあげた。
その声の大きさに明美は思わず指を唇に当て「しっー!」
「ごめん。でも、羨ましい。その人と結婚するの?」
「分からない。そんなこと」
絶対にない。そんなこと……そう言い切っているのはあのガマガエルの方。悔しいけれど。彼はイケメンではないが、金持ち。その金に釣られて女がウンカのように寄ってくるのだ。彼が『女なんか掃いて捨てるほどいる。お前はその中の一人だ。忘れるな』と言った。そうだった、あのガマガエルに抱かれる一人の女に過ぎないのだ。忘れてはいけない。でも、あのガマガエルに本当に捨てられたら、どうすればいいのだろう。
「結婚した方がいいよ。私たちの年齢じゃ、もう終わりよ。いいわね、ラストチャンスにいい人が見つかって。いつも最後は私の負けね」と京子が言った。
ガマガエルから呼び出しがあった。
明美は久々の誘いに浮足立った。真新しい下着に美しい服を着て出かけた。
指定された場所は高級料理店。驚いたことに彼の隣には若い女が座っていた。どう見ても二十五、六だ。
彼は何も言わなかった。明美も明るく振る舞い、若い女のことは聞かなかった。
食事を終えた後、彼が明美の前にぽんと封筒を置いた。
「黙って受け取れ。これで別れよう。俺の気持ちだ」
隣に座っている小娘が、「優しいのね。賞味期限切れの女なのに……」と彼を見た。
明美は小娘を睨みつけた。
「ねえ、パパ、あの人、怖い!」
「黙っていろ!」と叱った。
そこは繁華街の片隅にあるバー。さほど流行っているわけではないが、休日ともそれなり混んでおり、どうにか店は維持している。
実質的に店を仕切っているのは明美だ。ママを補佐する立場でもある。店に勤めてあれこれと五年経つ。一時のつもりで働き始めたのだが、いつの間にか五年が経ってしまったのである。五年間の間に女の子たちもすっかり入れ替わった。
最近、沙織という二十になった女の子が入った。彼女はつい最近失恋したばかりだという話をした。すると、明美は諭すように「気を落とさないで。人生なんかどうにでもなるものよ」と言った。
明美はもう四十を越えている。かつては絶世の美女とまで言う人もいたが、もう小じわを隠せない。笑うたびに目のあたりにたくさんの皺ができる。そのうえ、下腹部の弛みもはっきりと分かる。
「その男と結婚したいと思うほど惚れたんだ」と羨ましそうに言うのは妙子。三十五を過ぎた彼女の化粧は濃い。歳を追うごとに濃くなっていく。今では、まるで仮装パーティにでも参加するのかと聞きたくなるほど濃い。
「死にたいほど好きだったんです」と沙織は涙を浮かべた。
「いいな、そんな恋なんか、遠い昔に忘れた」と妙子が呟くと、
「自分から捨てたんじゃないの。どこかのドブ川にでも」と酔っぱらった静香が言う。
「うるさいわね。黙っていてよ。沙織さん、よくお聞き、夜の商売にどっぶりつかったら、いい男は見つからないわよ。私たちが見本よ、ねえ、明美さん?」
「そんなことはないわよ。その気になれば、いつでも作れるわよ」と明美が微笑む。
「そうですよ。明美さんほど綺麗なら、いるはずだし、今はいなくとも、たくさんの相手を見つけることができます」と沙織が慰めるかのように言う。沙織は空気も読めないしものの言い方を知らない。
明美は「あんたに慰めてもらうことはないのよ」と笑いながら沙織を見る。その眼は決して笑っていない。笑っていないばかりか、怒っている目だ。
「ごめんなさい。別にそんなつもりじゃなかったの。本当にごめんなさい」と沙織は恐縮する。
明美は思い出したように、「そうそう、この前、一緒に歩いていた男。背が高い。まるでバスケット選手みたいな男、あれが、その彼氏だったの?」
「いえ、彼氏なんて……」
「でも、一緒にラブホテルに入ったわよね」と明美は笑った。
沙織はその時のことを思い出した。そうだ、よくは分からなかったけど、ホテルの入り口ですれ違ったカップルがいた。あれは明美ではなかったか! 一緒にいたのは、確か中華屋の腹の出たガマガエルのような店主。実をいうと、明美は数年前からガマガエルと愛人関係にあった。最初は金のため。でも、今では……
「ねえ、どんなふうに彼は抱くのかしら? 後ろから、それとも前から」
明美が執拗に沙織を問い詰める。
「どんなって……そんなにしていません」
「でも、一回じゃないわよね。きっと十くらいしているでしょ? この店にずっといたいなら、嘘はつかないことね」と明美が意地悪そうににらむ。
「後ろからです」と沙織は赤面しながら答えた。
明美は思わず想像した。若い男が虎のような覆い被さるさまを。それに引き替え、自分は惨めだとも思った。お金につられて関係を結んだ中華屋の主人は、肝心なときに立たないことが多い。この前もそうだった。それを、中華屋の主人は「 魅力がないから立たない。お前とは別れる」と責め立てる。部屋を出るとき、手切れ金を投げつけた。屈辱的だった。もう十歳若かったなら、自分から別れを切り出したであろう。でも、もう四十。とっくに旬の時期を過ぎたことは自分でも分かっていた。手に職があるわけでもない女がそれなりの贅沢をしようと思ったら、男にすがって生きるしかないのだ。明美はそのことが十分に分かっていた。彼が一人で部屋を出ようとしたとき、「捨てないでよ」と泣いてすがった。独りぼっちになることを恐れたからだ。明美には、もう中華屋の主人しかいなかったのである。二十代の頃から星の数ほどの男が寄ってきたのに。今の沙織なんか足元に及ばないほど綺麗だったのに。みんな遠い昔の話になった。
明美の数少ない友達の京子がいる。彼女もシングルだ。だが明美と違うのは、昼間の仕事をしているというところだ。
「最近、セックスの夢を見なくなった」と京子が煙草を吸いながら言った。
「明美は夢を見ることがある?」
明美は照れ臭そうに首を振った。
「そうよね。十七、八の小娘じゃあるまいし。セックスも縁遠くなった。仕事をしているとき、ふいにガラスとかに映る自分の姿を見て驚くの。顔は皺だらけ、お腹もぽっこりと膨らんでいる。このままで死んだなら、何が残るのかって考えてしまって……胸が締め付けられるほど苦しくなる…明美はない?」
「ない」
嘘を言った。自分と全く同じだった。ただ、京子は友達だが、彼女と同じ位置にはいたくなかったのだ。
「そう、じゃ。好きな男がいるんだ」
明美の脳裏にすぐにガマガエル姿の中華屋の主人が浮かんだ。違う、あんな奴が恋人のはずがない。あれは金だけの関係で結ばれた男。
「好きな人がいない。いたら……」
「いたら……何?」
「何でもない?」
「明美って、いつもそうよね。そうやって自分を作っている。自分を見せないようにしている。自分をさらけだすのが怖いのね」と京子は笑った。
一緒に明美も笑った。ここは笑うしかないと思ったのである。
「そうなの。私は臆病なの。本当の自分をさらけだせないよ。生まれ持っての性分よ。どうしょうもない。でも、一つだけ本当のことを教える。私はまだセックスをしている」
「本当に?」と京子は驚きの声をあげた。
その声の大きさに明美は思わず指を唇に当て「しっー!」
「ごめん。でも、羨ましい。その人と結婚するの?」
「分からない。そんなこと」
絶対にない。そんなこと……そう言い切っているのはあのガマガエルの方。悔しいけれど。彼はイケメンではないが、金持ち。その金に釣られて女がウンカのように寄ってくるのだ。彼が『女なんか掃いて捨てるほどいる。お前はその中の一人だ。忘れるな』と言った。そうだった、あのガマガエルに抱かれる一人の女に過ぎないのだ。忘れてはいけない。でも、あのガマガエルに本当に捨てられたら、どうすればいいのだろう。
「結婚した方がいいよ。私たちの年齢じゃ、もう終わりよ。いいわね、ラストチャンスにいい人が見つかって。いつも最後は私の負けね」と京子が言った。
ガマガエルから呼び出しがあった。
明美は久々の誘いに浮足立った。真新しい下着に美しい服を着て出かけた。
指定された場所は高級料理店。驚いたことに彼の隣には若い女が座っていた。どう見ても二十五、六だ。
彼は何も言わなかった。明美も明るく振る舞い、若い女のことは聞かなかった。
食事を終えた後、彼が明美の前にぽんと封筒を置いた。
「黙って受け取れ。これで別れよう。俺の気持ちだ」
隣に座っている小娘が、「優しいのね。賞味期限切れの女なのに……」と彼を見た。
明美は小娘を睨みつけた。
「ねえ、パパ、あの人、怖い!」
「黙っていろ!」と叱った。