潮騒
雪が降る日だった。ホテルの部屋から雪が海に降り注ぐ様を見ながら抱き合った。愛を確かめあった後、奈々子に向かって和樹は「幸せになりたかったから、普通の人と結婚しろ。俺みたいな風来坊はやめとけ。風のように気まぐれに生きる人間だから」と快活に言った。
「私はずっと和樹と一緒がいい」と応えると、彼は微笑んだ。その微笑がどんな意味があるのか、直ぐに分かった。奈々子も恋の経験なら五回あった。多いとはいえないけど、男がどんな生き物かは知っていた。
「五月になったら、お別れだ。いいね。決して、その先があるとは思わないでくれ」
「分かった。でも、それまで私を愛して」と奈々子は懇願した。
あれから半年近くが過ぎたのだ。
沈黙したままだった。二人とも何を言っていいのか分からなかったのである。
奈々子は年下の男に泣いてすがるような真似はできなかった。その思いが二人の間に線を引き、そして奈々子に偽りの自分を演じさせた。けれど、今は違う。何かにすがって生きたい。何でもいい。心の拠り所になるものが欲しかった。そうだ、一線を越えよう。そして本当の自分をさらけ出そう。泣いてすがろうと思った、そのときである。音がした。そんなに遠くからではない。耳を澄ませた。水の滴る音だ。ぽちゃん、ぽちゃんと。水道の蛇口が少し緩んでいて、水が漏れて、それがコップに落ちて音がしているのだ。その音を聞いているうちに、激しく起こった熱情が急に冷めていった。
「じゃ、行くよ」と和樹が言った。
「うん」と呟いた。
ホテルを出た。
和樹は「さようなら」と言った。奈々子も「さようなら」と微笑んだ。すると、彼は一人タクシーに乗り消えた。それが永遠の別れだった。
六月、奈々子は独りで海に来た。
浜辺で腰を下ろした。潮騒の音が強く耳に響く。
同じ海を和樹も見ているのかと考えた。それとも異国の地で女と知り合い肩を寄せ合いながら海を見ているかとも考えた。嫉妬に近いものが沸き起こったが、それも潮騒に打ち消された。ただ、今は虚しいだけ。和樹のいない日々がこんなに虚しいとは想像ができなかった。
日が沈み、星々が夜空に輝き始めた。頬に涙が流れた。「このまま死んでしまいたい」とも考えた。母親がいなかったから、海に身を投げていたかもしれない。だが、母親がいる。和樹との思い出を胸の奥にしまいこんで、今は生きるしかない。そんなふうにもう一人の自分が囁く。