中途半端なピエロ
『中途半端なピエロ』
冬のある日の午後、取引き先に向かうために、トキオは部下のキョウコと一緒にタクシーに乗った。
しばらくして、キョウコはハンドバックから口紅をとりだし塗り始めた。その仕草をそっと見た。まるでセックスを終えた後の化粧を見るようで妙に艶めかしく思えてきた。ふと、愛人のハルミが口紅を塗るところを見せたことがないことに気付いた。それところどこか、化粧をとった素顔も見せたこともない。素顔を見せないのは深い関係になっていないと証拠だと誰から聞いたことがある。知らないのは素顔だけではない。住まいも年齢も知らない。ただ、ハルミが借りた安い部屋で一時愛し合うだけ。セックスを終えると、ハルミは髪を少し直す。その部屋は、ハルミが住むために借りた部屋ではなく、ただ週末を過ごしたり、あるいは男と一時愛し合ったりするために借りた部屋なのである。だから浴室もない。その部屋で入ると、すぐに服を脱いで愛し合う。終わったら、すぐに部屋を出る。
トキオもキョウコと同じように自分をさらけ出していない。互いに作った顔で接し、互いの領分を侵さず、つかず離れずの関係を続けている。ぬるま湯に浸かっているような関係といってもいい。ぬるま湯でいいと思っていた。だが、最近物足りなさを感じている。虫の良い話だが、自分をさらけ出したくないが、ハルミにはもう少し自分をさらけ出してほしいと願っている。
その夜、トキオがハルミに向かって、「もっと、自分を見せろよ」と迫った。
すると、ハルミは「三十までは簡単に自分をさらけ出すようなことをしない。だって、未熟だから。三十くらいになれば、男を見分けられるほど、成長する。そのときには、素顔を男に見せられる。だから、それまで待ってよ」と応じた。
三十か。まだ二年ある。その二年は、トキオにとってずいぶんと先のことに思えた。そのとき、自分の肉体や精神がどんな状態かと想像してみたが、想像することはできなかった。ハルミは気づいていないが、今でも若くはない。倦怠感が常にあり、夜にもなると、いいようのない疲労感に襲われる。ただ、それを見せないようにアグレッシブな仮面をつけて演じている。
トキオの友人のカズオは、トキオとハルミの関係に気づいていない。だからハルミと一夜をともにしたことを、トキオに告白した。
「クリスマスの日、随分酔っていたから、セックスしたかどうか忘れたけど、朝起きたら、同じホテルに泊まっていた」
なぜ、その事実をハルミに問い詰めなかったか? 嘘さえつかなければ、誰とセックスしようが構わない。恋人というわけでもないし、婚姻関係を結んでいるわけでもない。それにトキオも他の女と一夜をともにしたことは何度もあった。ほとんどが娼婦だったが。
クリスマスが過ぎて一週間後のこと。その日は朝から雪が降っていた。
ホテルの2階にあるバーで、外灯に照らされた雪景色を見ながら、トキオはハルミとグラスを傾けた。
カズオと一夜を過ごしたことを、ハルミは告白した。
トキオは責めなかった。ただ、「どうして?」と聞いた。
するとハルミは「だってクリスマスよ。独りぼっちは寂しすぎるよ」と微笑んだ。
セックスをしたのかどうかは最後まで言わなかった。
「カズオの手が温かった」というハルミの告白に、なぜか激しいジェラシーを感じた。その温かい手は彼女の体のどこを温めたというのか。
「最低だよね」とハルミは言った。
「別に、君の人生は君のものだ。誰のものではない」とトキオは静かに言った。
「私たちの関係はおしまい?」とハルミは言った。
「別れたいのか?」
ハルミは首を振った。
「だったら、続けよう。過去は過去。過ぎたことは忘れる。それが俺の生きる哲学だ」
トキオはハルミを見ていなかった。いや、見ていることができなかったのかもしれない。トキオは窓ガラスを見ていた。窓ガラスは外の冷気のせいで白く曇って、ちょうど鏡のようになっている。そこにトキオの顔が映し出されている。笑っているようで泣いているような不思議な顔をしている。……遠い昔、母が困ったとき、そんな顔をしたことを思い出した。その母にあまりにも似ているのでびっくりした。いや、表情だけではない。顔の皺も白髪も……老いた母に生き写しのように似ていた。
「どうしたの?」とハルミが聞いた。
「何でもない」と答えた。
「何だか変よ」
そんなことは言われなくとも分かっている。変だ。自分が自分でない気がする。
「今日の雪、明日まで残るな」
「天気予報では一週間、降り続くと言っていた」とハルミが応えるのを、相変わらず上の空で聞いていた。
学も無く、不器用な母が見せた不思議な表情……直観的に何かに似ていると思って、それが何であるか、ずっと引っ掛かっていた。考えた末、それがピエロであることに気づいた。……ということは、そのピエロに自分も似ている、という考えに到達するのにさほどの時間がかからなかった。ついこの前まで自分を哲学者だと思っていたのに。その落差に笑わずにはいられなかった。
「どうしたの?」
「何でもない。昼間のことを思い出して、つい笑ってしまった」
どんなに格好つけようが、所詮、ピエロはピエロに過ぎない。ピエロは滑稽で惨めな役を演じるのが定め。母がそうだった。甲斐性なしの父にしがみついて生きるしかなかった。そのとき、彼の中で何かが音を立てて崩れていくのを感じた。
翌日、トキオは妻に別れ話を切り出した。実をいうと、彼は一年前から、別れ話はしていた。妻はただ別れたくないと言うだけだった。
「今度こそ、本当に別れよう。その代り、預金の半分はくれてやるよ」
妻はにやりと笑った。
「いいわ」
その返答にトキオは驚いた。
「意外と思っているのね。別にあなたへの未練なんかずっと前に失っていた。そんなことも知らなかったの? 欲しかったのはお金だけ。子供も大きくなった。あの子、留学すると言い出したの。離婚にちょうどいい機会だと思った。約束とおり貯金の半分は私の物よ。いいかしら?」
「それが条件だ」
「関係ない話だけど」と言って妻が封筒を差し出した。
ハルミの素行調査の結果だった。
「ずいぶんと蓮っ葉な女よ。変な女に引っかかったわね」と妻は笑った。
確かに浮気っぽいところはあったが、ふしだらというほどではなかった。しかし、調査はひどい書かれようだった。それはあたかも依頼主の意思を反映したような内容だった。
「思ったとおりか?」
「いいえ、思ったよりもひどいわ。なのに、あなたはいろんなものを買ってあげた。ネックレスにブレスレット、それに指輪。でも、きっとそれらを着けながら他の男に抱かれたはずよ」と勝ち誇ったように言った。
「でも、他の男の種の子を産んで俺の子だというよりはましだ」と冷たく言い放った。
「私のことを言っているの!」
トキオが、「そうだ。俺が本当のことを知らいと思っているのか。あの学生の密会していたのは知っていた」と冷たく答えると、
妻は切れた。切れると、抑止が聞かない。手当たり次第当って、投げる。
「ひどい人、ろくでなし、あなたの子なのに…」
「じゃ、どうしてDNA鑑定を受けない?」
冬のある日の午後、取引き先に向かうために、トキオは部下のキョウコと一緒にタクシーに乗った。
しばらくして、キョウコはハンドバックから口紅をとりだし塗り始めた。その仕草をそっと見た。まるでセックスを終えた後の化粧を見るようで妙に艶めかしく思えてきた。ふと、愛人のハルミが口紅を塗るところを見せたことがないことに気付いた。それところどこか、化粧をとった素顔も見せたこともない。素顔を見せないのは深い関係になっていないと証拠だと誰から聞いたことがある。知らないのは素顔だけではない。住まいも年齢も知らない。ただ、ハルミが借りた安い部屋で一時愛し合うだけ。セックスを終えると、ハルミは髪を少し直す。その部屋は、ハルミが住むために借りた部屋ではなく、ただ週末を過ごしたり、あるいは男と一時愛し合ったりするために借りた部屋なのである。だから浴室もない。その部屋で入ると、すぐに服を脱いで愛し合う。終わったら、すぐに部屋を出る。
トキオもキョウコと同じように自分をさらけ出していない。互いに作った顔で接し、互いの領分を侵さず、つかず離れずの関係を続けている。ぬるま湯に浸かっているような関係といってもいい。ぬるま湯でいいと思っていた。だが、最近物足りなさを感じている。虫の良い話だが、自分をさらけ出したくないが、ハルミにはもう少し自分をさらけ出してほしいと願っている。
その夜、トキオがハルミに向かって、「もっと、自分を見せろよ」と迫った。
すると、ハルミは「三十までは簡単に自分をさらけ出すようなことをしない。だって、未熟だから。三十くらいになれば、男を見分けられるほど、成長する。そのときには、素顔を男に見せられる。だから、それまで待ってよ」と応じた。
三十か。まだ二年ある。その二年は、トキオにとってずいぶんと先のことに思えた。そのとき、自分の肉体や精神がどんな状態かと想像してみたが、想像することはできなかった。ハルミは気づいていないが、今でも若くはない。倦怠感が常にあり、夜にもなると、いいようのない疲労感に襲われる。ただ、それを見せないようにアグレッシブな仮面をつけて演じている。
トキオの友人のカズオは、トキオとハルミの関係に気づいていない。だからハルミと一夜をともにしたことを、トキオに告白した。
「クリスマスの日、随分酔っていたから、セックスしたかどうか忘れたけど、朝起きたら、同じホテルに泊まっていた」
なぜ、その事実をハルミに問い詰めなかったか? 嘘さえつかなければ、誰とセックスしようが構わない。恋人というわけでもないし、婚姻関係を結んでいるわけでもない。それにトキオも他の女と一夜をともにしたことは何度もあった。ほとんどが娼婦だったが。
クリスマスが過ぎて一週間後のこと。その日は朝から雪が降っていた。
ホテルの2階にあるバーで、外灯に照らされた雪景色を見ながら、トキオはハルミとグラスを傾けた。
カズオと一夜を過ごしたことを、ハルミは告白した。
トキオは責めなかった。ただ、「どうして?」と聞いた。
するとハルミは「だってクリスマスよ。独りぼっちは寂しすぎるよ」と微笑んだ。
セックスをしたのかどうかは最後まで言わなかった。
「カズオの手が温かった」というハルミの告白に、なぜか激しいジェラシーを感じた。その温かい手は彼女の体のどこを温めたというのか。
「最低だよね」とハルミは言った。
「別に、君の人生は君のものだ。誰のものではない」とトキオは静かに言った。
「私たちの関係はおしまい?」とハルミは言った。
「別れたいのか?」
ハルミは首を振った。
「だったら、続けよう。過去は過去。過ぎたことは忘れる。それが俺の生きる哲学だ」
トキオはハルミを見ていなかった。いや、見ていることができなかったのかもしれない。トキオは窓ガラスを見ていた。窓ガラスは外の冷気のせいで白く曇って、ちょうど鏡のようになっている。そこにトキオの顔が映し出されている。笑っているようで泣いているような不思議な顔をしている。……遠い昔、母が困ったとき、そんな顔をしたことを思い出した。その母にあまりにも似ているのでびっくりした。いや、表情だけではない。顔の皺も白髪も……老いた母に生き写しのように似ていた。
「どうしたの?」とハルミが聞いた。
「何でもない」と答えた。
「何だか変よ」
そんなことは言われなくとも分かっている。変だ。自分が自分でない気がする。
「今日の雪、明日まで残るな」
「天気予報では一週間、降り続くと言っていた」とハルミが応えるのを、相変わらず上の空で聞いていた。
学も無く、不器用な母が見せた不思議な表情……直観的に何かに似ていると思って、それが何であるか、ずっと引っ掛かっていた。考えた末、それがピエロであることに気づいた。……ということは、そのピエロに自分も似ている、という考えに到達するのにさほどの時間がかからなかった。ついこの前まで自分を哲学者だと思っていたのに。その落差に笑わずにはいられなかった。
「どうしたの?」
「何でもない。昼間のことを思い出して、つい笑ってしまった」
どんなに格好つけようが、所詮、ピエロはピエロに過ぎない。ピエロは滑稽で惨めな役を演じるのが定め。母がそうだった。甲斐性なしの父にしがみついて生きるしかなかった。そのとき、彼の中で何かが音を立てて崩れていくのを感じた。
翌日、トキオは妻に別れ話を切り出した。実をいうと、彼は一年前から、別れ話はしていた。妻はただ別れたくないと言うだけだった。
「今度こそ、本当に別れよう。その代り、預金の半分はくれてやるよ」
妻はにやりと笑った。
「いいわ」
その返答にトキオは驚いた。
「意外と思っているのね。別にあなたへの未練なんかずっと前に失っていた。そんなことも知らなかったの? 欲しかったのはお金だけ。子供も大きくなった。あの子、留学すると言い出したの。離婚にちょうどいい機会だと思った。約束とおり貯金の半分は私の物よ。いいかしら?」
「それが条件だ」
「関係ない話だけど」と言って妻が封筒を差し出した。
ハルミの素行調査の結果だった。
「ずいぶんと蓮っ葉な女よ。変な女に引っかかったわね」と妻は笑った。
確かに浮気っぽいところはあったが、ふしだらというほどではなかった。しかし、調査はひどい書かれようだった。それはあたかも依頼主の意思を反映したような内容だった。
「思ったとおりか?」
「いいえ、思ったよりもひどいわ。なのに、あなたはいろんなものを買ってあげた。ネックレスにブレスレット、それに指輪。でも、きっとそれらを着けながら他の男に抱かれたはずよ」と勝ち誇ったように言った。
「でも、他の男の種の子を産んで俺の子だというよりはましだ」と冷たく言い放った。
「私のことを言っているの!」
トキオが、「そうだ。俺が本当のことを知らいと思っているのか。あの学生の密会していたのは知っていた」と冷たく答えると、
妻は切れた。切れると、抑止が聞かない。手当たり次第当って、投げる。
「ひどい人、ろくでなし、あなたの子なのに…」
「じゃ、どうしてDNA鑑定を受けない?」