星の帝国
序章 〇、終わりの始まり(前編)
荒野に吹く風は砂まじりで、いつも視界を曇らせる。風がやむと見えるのは、崩れた噴水を囲んで並ぶ百軒以上の廃屋だ。かろうじて破壊を免れた家々や商店が、白いシーツやカーテン、肌衣(はだぎぬ)を即席の白旗として窓辺に吊るしていた。
そのなかで一軒の娼館だけがいまだ争いの渦中にあった。小銃を手にした歩兵たちが次々と突き進んでゆき、二階建ての石造りに並ぶ窓から火の手が上がる。
「ここさえ押さえれば戦闘はすべて終わる!」
隊長の雄叫びにしたがい、いかにも硬そうな鋼板とリベットを光らせた戦車が数両、砲塔を館に差し向けていた。
突撃は戦いといえるほどのものにはならなかった。帰還を果たした歩兵たちはそれぞれ、すすけた少女を担ぎ上げていた。
その騒ぎの後方で、百人ほどの兵士たちに守られたひとりの少年は、繰り広げられている光景から目をそらすことができないでいた。やっと十を過ぎたように見えるあどけない顔には、泥臭い戦場よりも宮殿のほうがさまになる気品がある。ほっそりとした輪郭を縁取る手入れの行き届いた金髪に、土気色の軍装が不似合いだった。
彼の名はハワード・イライアス・アーサー・ウォーナメント。イーストランド帝国の皇子である。
「この少女が最後のひとりです!」
歩兵が抱いているのは、気を失った少女だった。年のころはハワードとあまり変わらない。銀髪に炎が写りこんで朱色に染めあげられているさまは、雪原に散る血痕のようだ。
「リリアと同じ色だ――」
黄泉の国から帰ってきた死人を目撃したかのようにつぶやくハワードの隣で、三十代半ばの軍人は平然としたままだった。皇子付きの近衛隊長、ヒューバート・モグ大佐である。鼻の下にわずかにはやされた髭は真四角に整えられていて、彼の神経質そうな風貌を説得力のあるものに見せていた。
「リリア殿は亡くなりました。あの子は親に売られた、ただの哀れな少女です」
リリア・シルヴァーナは皇子の母に仕える女官だったが、昨年、病死している。
「売られたってどういう意味?」
先に助けだされた少女たちの集団に銀髪の少女の姿が溶けこんだのを見届けてから、ハワードはモグを見上げた。
「不幸なめぐりあわせという意味です。神が与える宿命のひとつでございます」
「リリアとジールが死んだのも宿命なの?」
「殿下が昨年、女官のみならず、いちばんのご友人まで亡くされたことは悲しいことです。しかし、だからといってあの少女に会いに行こうなどとはなさらぬように。たしかにリリア殿と見紛うほどの銀髪ではございましたが……彼女はリリア殿ではありません」
硬い表情で発する沈黙だけを、皇子は近衛隊長への返答とした。
神聖暦一五三三年はメリル島の地図が変わった年だった。島東部に位置するイーストランド帝国軍が、島西部のリドル王国に二個師団、五万人の遠征軍を出し、併合したためだ。
そのときリドル王国は、王の圧政に耐えられなくなった民衆による反乱のさなかだった。この機会にリドルを手中にしてしまえばよい――それがイーストランドの本音だった。リドル国民は彼らを歓迎した。新たな支配者を喜ばせるだけだとも知らずに……。
春の晴れたこの日、イーストランド軍は、リドル王国一の歓楽街ソドモーラを占領したばかりだった。
ソドモーラは太陽が空に君臨する時間にひっそりと眠り、夜が太陽を追い落とすころになってから目を覚ます。昼間に二千人しかいない人々は日が沈むと同時にわきいで、三千軒もの酒場や娼館に明かりがともるのだ。
昼のソドモーラに暮らす二千人のほとんどは、借財を背負った男や売られた少年、連れ去られた少女、女たちだ。時間と体を拘束され、主人の意のままに生きることだけが彼らに許された生き方だった。
イーストランド帝国軍がひとまずの基地としたのは、接収した石造りのホテルだった。古城に似た趣きのある三階建てのホテルは、ソドモーラに出撃した一万人の兵士全員が寝床を確保するには手狭だった。鼠の毛皮を一面に張りつけたような石壁を囲んで野営地の天幕がずらりと並ぶさまは、巨大な鼠に絡みつく太いロープを思わせる。
皇子が食事を摂っている時間は、モグ大佐にとって久方ぶりに訪れた休憩であった。金属製の家具に囲まれた部屋でひとり、彼は祖国から持ってきていた妻と娘の写真を眺めていた。だがその静かで貴重な時間は、不躾なノックによってすぐにつぶされてしまった。
「何ごとだ!」
扉を開けたモグの視界に飛びこんできたのは、慌てふためく若い近衛兵である。
「ハワード殿下がいらっしゃらないのです! 先ほどまでお部屋で近衛と共に礼拝をなさっていたのですが……少し目を離したすきに」
「ああ、神様、神様……」と繰り返す近衛兵に、部屋から瞬時に飛びだしたモグは結果的に体当たりしてしまった。若い兵士の願いは皇子が無事であることを祈るものだったが、モグへの恐怖がまじっていないとは言えない。そして彼の願いは神に届かなかった。
「何をぼんやりしている! さっさと殿下を捜しに行かんか!」
散らばるコンクリート片にアスファルトを飾りたてられた街に、夕闇の足音が近づきつつあった。
かけらを軍靴(ぐんか)で踏みつけながら、ハワードは進んだ。
滅んだ街を通りすぎると、両脇にいくつもの天幕が並びはじめた。勝利の歓声を背景音楽に、戦車の派手な泥はねを洗う戦車兵、座りこんで小銃を磨く歩兵、数人で集まって酒を回し飲みしている若い兵士、トランプに興じている集団。時間の過ごし方は様々だった。
そのどれもがハワードにとって鮮烈であった。彼は皇妃を母に持たない、公妾腹の皇子だが、宮殿の敷地内に設けられている離宮で何不自由ない暮らしをしているのが本来の日常である。こうして戦場に連れてこられたのは、みずから遠征軍を率いる皇帝ハロルドたっての希望であった。
戦場を見せたいからだ――と皇帝は国務大臣たちに説明していた。そこにどのような期待が含まれているのか、十一歳の少年であるハワードには想像することさえできなかった。
夕日を浴びてきらきらと輝く金髪をなびかせる皇子を目撃した兵士たちは、ひそひそと言葉を交わした。泥にまみれた戦場で、きれいすぎるといっても過言ではない彼の姿は具現化した異質そのものである。
――おひとりなんだろうか。護衛の姿が見えないようだが……。誰か上官を呼ぶべきなのだろうか――。
ざわめく兵士たちをかきわけて怒鳴り声を上げたのは、額に青筋を立てて息を切らしたモグ大佐である。
「ハワード皇子殿下!」
少年の細い背中がびくりと震えた。
「捜しましたぞ! あれほど申し上げましたのに! 勝手な行動をなさって!」
モグは遠慮を見せずにハワードの二の腕をきつく掴む。眉をしかめたハワードは口をとがらせてそっぽを向いた。
「あの子に会いたいんだ」
「先ほどの銀髪の少女にですか」
「ああ、そうだ。だってあの子の銀髪はリリアにそっくりだ。きっとリリアが帰ってきたんだよ。神様が願いを叶えてくれたんだ。ぼくは毎日お祈りしている。リリアとジールを生き返らせてって……」
「……殿下、おふたりは亡くなったのですぞ」
モグの力がゆるんだ。しかしハワードは近衛隊長に預けた腕を取り戻そうとはしない。