遼州戦記 保安隊日乗 7
懐紙をコートのポケットから取り出すと桐野は静かに刀身を拭い始めた。何度となく斬ってきた人間の肉の脂で汚れていく懐紙。それを見ても北川の心は特に揺らぐこともない。
『俺もすっかり人殺しが板についてきた……初心というのは忘れるもんなんだな……』
口に出したとしたら間違いなく桐野に馬鹿にされるであろう昔の自分を思い出しながら北川は静かにしばらくは見納めになる東和の景色をキャビンの窓から眺めることにした。
殺戮機械が思い出に浸るとき 17
「そちらの部下の方々は……私の艦が気に入らないようだ……残念ですね」
遼州派遣フランス宇宙軍艦隊司令カルビン提督は引きつった笑いを浮かべながらモニターの中で浮かない表情の北川達を眺めていた。そしてそのまま視線を不可思議な雰囲気をまとった美しい女性の方へと向けた。
一見アジア系に見えるが、遼州人も多くは同じように見えるのでカルビンには彼女が何者かは分からない。細い切れ長の目と長い輝いて見える黒髪。年の頃は25くらいに見えるが女性は化けるのを知っているので特に気にすることもなくただ黙ってそのまま彼女の前のソファーに腰を下ろした。
軍事交流の一環で訪れた東和宇宙軍の新港。近くにはカルビンの興味を引きつけて止まない保安隊の運用艦『高雄』の姿もあるという。ただ雑務にかまけて結局ここで停泊していられるのも後数時間。後悔をしているのは事実だが、任務を常に優先する彼の人柄が彼を分遣艦隊司令の地位まで引きずりあげてきたのも事実だった。
女性は静かにコーヒーを啜っている。カルビンはコーヒーの味にはうるさい。豆はエチオピアの放射能汚染地域以外から取り寄せ、焙煎は暇を見繕っては自分で行い、そして毎日必要な分だけ自分で挽く。コーヒーを味わうことを中心に自分の人生は回っている。そう思うと少しばかり不思議な気持ちだがそれが事実だったのだから仕方がない。もう退官も近い年になるとそんな悟りに近い境地に達するようになってくるものだ。
「アイツ等が部下……笑わせてくれますねえ……アタシとアイツ等の関係性。まともな軍人さんには分からないものかもしれませんがね」
妖艶な笑み。そんな言葉がぴったりと来るような笑みを浮かべる女性。彼女の流ちょうなフランス語に今日何度目かの感嘆の表情を浮かべた後、カルビンは静かに彼女が差し出したカードを手に取る。
「ハド陛下からの書簡……確かにお預かりしました。欧州は今のところは平穏だが……遼州系移民も少なくない。今回の遼北と西モスレムの紛争で彼等に妙な動きが無いとも言えませんから……使い手を貸していただけるのは本当に願ってもいないことです」
静かに丹念にカルビンは答える。彼としても目の前の女性、ギルドの総帥廃帝ハドの使者が先ほどのキャビンの乗客並みに危険な存在なのは十分理解が出来た。
法術師。その存在を欧州でもいち早く知ったカルビンだが、その威力はすでに上層部は十分に理解していることは彼の『近藤事件』で観測された様々なデータに全く関心を示さないフリをしていることで証明されていた。予期した危機。だが上層部は対策が満足に出来ていない状況でその存在が公になったことに焦りを感じているようだった。そのための無為無策。ちょうど道の真ん中で車に轢かれる猫のように明るいヘッドライトに照らされて金縛りにあったように動かない状態。それが今の上層部の姿だとカルビンは判断していた。
さもなければキャビンの二人がカルビンの艦隊の艦に乗る必要もない。二人とも遼州同盟司法局の追う違法法術発動事件の重要参考人である。もし彼等の存在が同盟加盟国の所属機関に漏れれば国際問題では済まない話になる。
「ああ、アイツ等なら問題ありませんよ……なにしろ太子直々に因果を含めてありますから」
女性の冷たい笑みにカルビンは背筋に寒いものが走る。カラ。彼女はそう名乗った。サーネームを尋ねたが『いろいろと事情が……』と軽くはぐらかされた。カルビンも海軍の士官らしく若い頃は浮き名を流したものだが、この手の女性には気をつけろとその頃の勘が自分に告げるので特に深く追及もせずに今に至る。だが彼女の時に悪意を感じる微妙な表情の機微を見る度にただそんな自分の若い頃の判断が正しかったのかと思い悩む瞬間があるのを感じていた。
「法術師には法術師を当てるしかない……それは分かっているのですが……」
納得がいかないような口ぶりのカルビンをあざ笑うような笑みで見下すカラ。
「お互い上の意志は尊重しましょう。それが組織で生きるコツですよ」
カラの口元の微かな笑み。そこにサディスティックな彼女の嗜好を想像してカルビンはさらに表情を硬くした。
「ですが……」
相手の方が上手と分かっていてもカルビンにはただここで自分がこの命令に不満を持っていることをカラに伝えておくべきだと思っていた。
桐野孫四郎。彼の経歴はカルビンも噂には聞いている。先の大戦でほとんど無謀とも言える遼北反攻を企てた胡州帝国陸軍最後の大反攻作戦『北星計画』。対地球戦争反対派で外務省から謹慎を命じられていた現胡州宰相西園寺義基の遼北を通じての全面講和計画を潰すためだけに陸軍の強硬派が急遽でっち上げた穴だらけの反攻作戦。その結末はあまりにも哀れだった。
作戦準備が内通していた遼南帝国軍から漏れ、胡州陸軍とゲルパルトの派遣部隊は罠に頭から突っ込んでいく形になった。遼北は首都防衛のために温存していた精強部隊の革命防衛隊を惜しげもなく投入し、胡州軍を中心とした枢軸側は緒戦から敗戦に次ぐ敗戦。そしてそれをあざ笑うかのように遼南帝国近衛師団長ガルシア・ゴンザレス将軍が遼南の首都央都でクーデターを起こしてアメリカ軍を引き入れ、胡州軍は南北から挟み撃ちに会うという惨劇に見舞われることになった。
その首脳部。愚かでカルビンも出来れば関わり合いになりたくないうさんくさい連中だが、終戦後、桐野は彼等を一人、また一人と斬殺していった。
『怨』
その場に残された血染めの文字。確かにそんな恨み言でも言いたくなる気持ちは分かる。だが桐野はそれ以来血塗られた経歴を残していくことになるのは当然だったのかも知れない。
戦後、対外資産を凍結されて経済的に混乱する胡州で彼の暴力はあらゆる場面で必要とされるようになった。闇市で、裏市場で、時には中央官庁の官吏の手引きを受けた形跡まで残して桐野の蛮行はとどまることを知らなかった。
そんな名の知れた人斬り。恨みは山のように買っていることだろう。何度となく死亡説が流れたこともある。だがいつの間にか彼は廃帝ハドと言う庇護者を得てこうして東都で人斬り稼業を続けてきていた。そして今度はそのまま地球に渡るという。
「言いたいことは分かるがねえ……桐野のことだろ? だから因果は含めてあるって言ったじゃないか……分からない御仁だねえ……」
次第にカラの口調がくだけてくる。相手を呑んだというような妖艶な笑み。見た目の物静かさとは無縁な激動的な人生もあの桐野や北川などと同じくカラも過ごしてきたことだろう。
その時、机の上の端末に着信があった。
「早く出たらどうなのさ」
作品名:遼州戦記 保安隊日乗 7 作家名:橋本 直