お姫様の決断
アリアの言葉に頷きながら、ビオラは空を横切るカモメの姿を見ていました。大勢のカモメがいる中、二羽でぴったりくっついているのもいれば、ひたすら一羽で飛び続けているカモメもいます。カモメたちにも、個性があるのでしょうか。
「やってやるわよ」
そう言ってビオラはこぶしを天に振りかざしました。海を照らす太陽が、ビオラのこぶしを赤く染めました。その姿は十年前と何ら変わりなく見えました。
「姫様は変わりませんね」
「背は伸びたけどね」
アリアはクスクスと笑いました。
「ポタさんに会ったら、まず何をします?」
「ヒールで足を踏んでやる」
そう言って二人で笑いました。
翌日、アンタム王国の港にビオラ一行はたどり着きました。馬車に乗り換え、城へと進みます。町は賑やかに人々が行きかい、笑顔であふれていました。
「この町に来たのは、私は初めてかしら」
「二回目ですかねえ、姫様をお妃さまが出産されてからしばらくして訪問したんです。この国の王子様ともその時遊ばれたんですよ?」
「覚えてるわけないわねそんなの。どうりで懐かしくはあるけど記憶にないのね。王子ねえ、どんなやつ?」
「さあ、わたくしもしばらくお会いしてないんでなんとも。おそらく今日の演奏会でお顔を見ることにはなりますけど」
「なるほどね、演奏会は明日だっけ」
「ええ、明日のお昼過ぎになります」
ビオラは「ふうん」と言うと、活気だった街並みを見ていました。自分の国とはまた違った雰囲気に気分を良くし、鼻歌を歌いながら流れていくお店に目を向けていました。長い金髪を揺らしながら、主婦のような女性が、道を歩いていました。その時です。
「きゃー!」
路地裏から現れたはげ頭で筋肉質の男が女性のカバンをひったくって、すたこらさっさと道の向こうへと逃げて行きました。
「大変! 早く追いかけなきゃ!」
町の人が男を追いかけようと駆け出しているところをすり抜けるように、ビオラは馬車から飛び降り、ひったくり犯を追いかけました。スカートの裾を持ち、ヒールは脱ぎ捨ててはだしで駆け出しました。
「姫様! お待ちを! 危険です!」
「関係ないでしょ! 誰だってこういうときには一番に動かなきゃいけないのよ!」
兵士の止める言葉を聞き入れず、ビオラは男を追いかけました。バイオリンにバレエに格闘技、故にランニングやトレーニングは欠かしていませんでした。おかげでビオラの足は人一倍早く、ひったくり犯との距離を、少しずつ詰めていきました。ひったくり犯は振り返ると、冷汗をかきながら路地裏へと逃げ込みました。ビオラも後を追います。スカートがふわふわとして邪魔くさく、脱いでしまいたくなりました。路地裏の籠ったにおいや、落ちているガラス瓶は、あまり体験したことがないもので、すこしだけ抵抗がありました。
それでも女性の荷物は取られたままです。ビオラは駆け出し、迷路のように入り組んだ路地裏を進みました。
「足音がまだ聞こえるわ。こっちね」
音を頼りに、路地裏を右へ左へ曲がります。しばらく進んだ先は行き止まりになっており、そこにひったくり犯は壁へ追い詰められていました。
「さあ、観念して荷物を返しなさい」
「へっ、えらくべっぴんさんな格好してるなお譲ちゃん」
「お譲ちゃんじゃないわ、姫よ」
「姫だあ? ああ、バイオリン姫とかいうやつか」
「ビオラよ」
「なんでもいいさ。なんだってそんな高貴な方が、ちんけな国民のためにわが身を呈してやってきたんだい?」
「関係ないでしょ」
ポタとの約束。優しい人になる。それを他人に言うことは、その約束が弱まってしまう気がして、言えませんでした。そしてビオラは蹴りを男の股間に問答無用でたたきこみました。
「ぐはっ!」
あまりにもその行動が唐突で、男は油断していました。まともに攻撃をくらってしまい、うめき声を上げながらうずくまりました。あまりにもあっけなくやっつけることができたので、拍子抜けしました。
「さて、荷物は返してもらうわよ」
そう言って、ビオラは荷物のほうへと歩み寄りました。その時でした。後ろから足音が聞こえました。それも一人や二人ではありません。ぞろぞろと五人以上はいます。ビオラが振り返るころにはもう遅すぎました。男たちがバールやこん棒など、大小さまざまな武器を構えていました。どうやら仲間がいたようです。
ビオラは頭を殴られ、そのまま意識を失いました。
七 ばか
ビオラが意識を取り戻したのは、どこか懐かしい暗闇でした。ごとごととなにかに揺られ、寝そべっている床は木の板でできていました。
すぐにこれが以前ポタに連れられたときの台車のようだなあと思いました。運び方はポタより乱暴で身体の節々が痛みました。
喋ろうとしても猿轡をされているためできません。体を動かそうにもロープでぐるぐる巻きにされているため不可能です。すっかりあのひったくり犯の仲間たちにさらわれてしまったようです。今頃自分がどこにいるかもわかりませんし、助けも呼べず、自由もきかない。何も抵抗するすべがなく、大変後悔と悲しみに襲われました。あんなに深追いせず、とり返したらさっさと帰ればよかった。いいや、いっそ取り返すのにも集団で行くなど、いくらでも手はあったはずです。考えれば考えるほど、どれだけ自分がばかだったのか思い知り、激しい苛立ちを感じました。
このまま自分はどうなるのでしょう。野蛮な男たちに乱暴をされてしまうのでしょうか。それとも、どこかの貴族に売られてしまうかもしれません。いいえ、もしかしたら王国に多額のお金を要求してくるかもしれません。考えれば考えるほど、状況が最悪なことの理解が進むだけで、なんだか泣きそうになってしまいました。優しい人であり、正義を持った人であろうとしたつもりでした。でもそれは、ビオラの中だけのことでした。だからこそ、ビオラはとても悔みました。
こんなことを何度も考えたあたりで、台車がぴたりと止まりました。目的地に着いたのでしょうか。
「どうもお疲れ様です」
どこかで聞いたことのある声でした。
「こんな時間にずいぶんと大きな荷物ですねえ」
「そうなんだよ警備員さん。すぐにこいつを運ばないと。さ、早く通してくれ」
警備員の男は少し声を大きくしました。
「いえねえ、今なんでも来訪された姫が行方不明とのことで、王国全体で警戒態勢なのです。ここは範囲外とのことだったのですが、名バイオリニストのビオラ姫のためなら、広い範囲を見なければならないと判断したため、個人的にこちらを警備しておりました」
「へ、へえ、そいつはご苦労なこって、じゃあ、俺らは」
「中身を拝見させてもらえませんか」
「お、おいちょっと」
ばさっと、布がのけられる音がしました。ビオラの乗っていた台車にかぶさっていたカバーを警備員がはがしたようです。
「こんばんは、姫様。夜分遅くに変わったところで会えましたなあ」
そこにいたのはポタでした。警備員の服を身に纏い、無精ひげを生やした顔で、にかっと笑ってビオラの頭をなでました。ひったくり犯の仲間たちはどうしようと顔を見合わせています。