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箱庭の論理

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 学校から自宅へと帰ったばかりだった真理は、走っていた。
 呼び寄せるための客人も他にいない、整理された庭先を細い両足が駆ける。この広めの庭を管理しているのは真理でも真理のただ一人の肉親である父親でもなく、雇われた三十代後半の体格の良い男だった。よく日焼けした顔の中の、大きな目で自分に向かって走って来る真理のことを見付けると、手にしていたホースの口を閉め、愛想良く笑って手を上げた。
 男の手前辺りから真理の勢いは減速しはじめ、荒い息を落ち着かせるために薄い胸を上下させる。庭師の男はそんな少女の幼げな様子に目を細くして、その手を小さな頭へと乗せた。
「お帰り!真理さん」
「お帰り!尚毅!」
 男が真理に野太い声をかけるのと、真理が紅潮した顔を思い切り良く上げて、頭上の手を煩わしげに振り払い、言ったのがちょうど同時だった。
 庭師の向こうでのたうち回るホースを避けていた男は、真理の声に応えて柔らかく微笑んだ。
「なんか違うな…。お帰り、真理。お邪魔してるよ。ほら、これが正しい」
「違わないよ!尚毅が、尚毅が帰って来たんじゃん、あたしなんかよりずっと帰って来なかった尚毅が帰って来たんだから、帰って来なかった日の分もあるから、あたしがお帰りって言うのが正しいんだよ」
「ふうん。変な理屈だ」
 そう言う尚毅は、真理の成長に驚いているようだった。こちらを伺い見る表情からそのことが気取られて、真理の胸は密かにこそばゆい気持ちを抱えた。
「口が達者になったんじゃない?」
「あたしもう17だよ、そりゃ尚毅の言うことに、いちいちすごいすごいって言ってられないよ」
「あ、昔からだったか…」
「何それ!」
 真理と尚毅の目の前を、勢いをつけた水流が横切る。その日の午後の天気を反映したかのような、空の鮮やかな明るさを映し出した色合いをしていた。
 尚毅は横目でその様子を見て、それから瞳に光りをめいっぱい取り入れて尚毅のことを見詰めている真理の姿を、そっと見下ろした。真理にはそれが、見下されたと感じられた。
「お帰りって言われたら、ただいまって言うのよ。普通は」
「分かってるじゃん。普通じゃないってこと」
「なんでそんな…そんなことばっかり言うの」
 望む言葉をなかなか返そうとしない尚毅に、少女の勢いが弱まる様子を見せる。その様を見計らったかのように、尚毅は上背を折るようにして屈むと、子どもの視点に合わせて額と額を合わせた。
 少しばかり微笑むが、それは尚毅の中でもとびきりと表現して良いほどに、優しげな表情だった。
「俺の帰る場所はここじゃないよ。でも真理が俺を歓迎してくれていることは分かる。ありがとう」
 真理は不覚にも涙が出そうになった。しかしそんな自分がまるであしらわれるだけの本当の子どものようだと思われたから、ここはあえて飲み込み、すぐ眼前の尚毅に対して余裕を見せ付けるように鷹揚に頷いてやるのだった。
 最初からそう言えば良いのにと思うが、そう言わないところが尚毅だとも思った。
 先ほど走って庭先に駆け込んで来たその時と同じくらい、赤く紅潮した頬を尚毅の指先が包む。庭師の男がニヤニヤと笑ってこちらを見ているのを、目の力だけで追い払えたらどんなにか素晴らしいだろうと真理は考えていた。
「背が伸びたな。顔立ちも大人っぽくなったし、立派なお嬢さんに見える。髪伸ばしてるのか?前に見た時は、肩を越えたくらいだった気がするけど…、長いよな。あれ、そのピアスどうしたの。それにしてもそんな重たそうなカバンを持って、よくあれだけ走れるな。体力有り余ってるんじゃないの。学校はどう?楽しくやってる?」
「…それだけ?」
 思い付いたことを片端から口にする目の前の男を呆れたふうに眺めて、真理は組んだ腕の上で首を傾けさせた。
 それは少女というよりは女の仕草だと、尚毅が見定めた。真理はそんな尚毅に対して、通いで手伝いに来ている年配の女性のマシンガントークを思い出していた。
「やっぱり達者になってる。口だけじゃなくて、いろいろ」
「そ、そうかな…って、いやまあ、そうだよね。だって尚毅と最後に会ったのって二年くらい前じゃん、そうじゃん。あたしじゃなくても誰でも変わるよ。女の子だよ、毎日がメタモルフォーゼだよ」
「なんだその理屈。変なの」
 そう言って尚毅はおかしそうに頬を歪めて笑った。端正で、あるいは怜悧にも見られるような顔がそうして歪むところが真理は昔からずっと好きで、今もまた昔と同じような表情を見せる尚毅のことが好きだと思った。
 好きだと思って、次の瞬間には現実を見た。あたしじゃなくても誰でも変わるのに、それも自分よりもずっと大人の、真理には想像もつかないような環境で生きる尚毅が昔のありのままでいるとは思われない。
 尚毅の妙に理屈屋なところが移ってしまったようだ。
 彼は未だに真理の変な理屈に笑っている。論理的な物言いが好きなくせに、真理の口から滑り出る言葉が何であろうと、彼から否定されるようなことはない。ただ、からかわれるだけだ。そんな他愛のないやり取りがひどく幸せなことだと感じられる真理は、それこそが自分がもう子どもではない証拠だと実感していた。
「学校はそれなりに楽しいよ、友達といるのはね。背は150cmを越えたかな。ピアスホールは去年あけて、今着けてるのは誕生日に友達からもらったもの」
「ふうん。あけるの痛くなかった?その友達って、男の子?」
 四つのピアスホールをあけている筈の尚毅が、なぜだか大げさに眉をひそめてそう言った。尚毅の考えていることは、真理には分からないことが多い。
「痛かったけど、我慢した。ピアスしたかったから。…男の子って言ったらどうするの?」
「そいつを捕まえて、問いただそうかな。俺の将来の妻に贈り物だなんてどういうつもりだよって」
「女の子だよ。ねえ、なんでそういう、無神経なこと言うの」
「そうだな、ごめん」
 ただの冗談に過剰反応を示すようで癪だったが、真理は落ち込んだ気持ちを立て直すことができなかった。尚毅は本当に無神経なことを言ったのだ。
 その冗談を、何よりも現実にと願ったのは真理だった。
 何食わぬ顔をして冗談を言った尚毅は謝る時も、寸分違わず表情を変えなかった。こういう時に心底憎たらしい気持ちになる真理だった。
 愛憎とは、巧い言葉だと思った。
「お嬢さん、こんなところで立ち話もアレだから、尚毅さんと中でお茶にでもしろよ。朝子が用意してる筈だから」
「こんなところじゃない。あなたが管理してる、あたしのお庭だわ。良いところじゃんか、ずっといたくなる」
 取りなすように割って入る声に、真理はそう言って庭師の男を睨み付けた。
「はは、すみません、いや、そう言ってもらえるのは俺も嬉しいんだけどな、朝子にここまで出て準備しなおせってか?そりゃ老体にはキビシいぜ」
 朝子というのは、通いの家政婦の名だった。老年といって差し支えない年齢の朝子は真理が生まれる前からこの家で働いており、最近は足腰が覚束ない様子を見せることもあり、彼女に無理をさせたくないというのが真理には正直なところだ。
 真理は言葉に詰まると、庭師の男を両手でグイグイと押しやった。
作品名:箱庭の論理 作家名:ぬるたろう