腐った桃は、犬も喰わない
真樹夫がにっこりと笑って、芋虫のように蠕動するぎょろ目の脇腹を爪先で蹴り飛ばす。ぎょろ目が鈍い唸り声を上げるながら悶える。桃井さんを見上げるぎょろ目の眼球には、微かな焦燥と、温情を乞うような惨めさが浮かんでいた。
桃井さんはぎょろ目を見詰めたまま、何も答えない。真樹夫が緩く首を傾げる。
「要らん? 要らんのんなら、まぁ可哀想やけど沈めようかぁ」
可哀想なんて欠片も思っていないような声で言う。ぎょろ目の眼球が極限まで開かれる。瞳孔が広がって、その咽喉から呻き声が溢れ出す。
そんなぎょろ目の様子を意に介することもなく、真樹夫がゆったりと欠伸を漏らすのを見て、皮膚がぞっと粟立った。良心の呵責なんて、この男にはきっとない。誰が殺されようが、誰を殺そうが、この男が罪悪感に魘されたり、悲しみにすすり泣くなんてことはありえない。
だけど、桃井さんは違う。きっと違う、と思う。駆け出し、僕は桃井さんの手首を掴んだ。その皮膚は、吃驚するぐらい冷たかった。桃井さんが緩慢な仕草で僕へと視線を投げる。濁り汚れ、感情が完全に抑圧された死人のような目だった。その眼球を凝視して、僕は小さく頷いた。何て声をかければいいのか解らなかった。ただ頷いた。
桃井さんの唇が一瞬戦慄いて、それから眼球に微かな色が浮かぶ。その淡く揺らめく青色を、きっと悲哀と呼ぶ。
「いる」
泣き出しそうな声で、桃井さんは答えた。頼りなく、今にもかき消されてしまいそうな子供の声だった。しゃがみ込み、血を垂れ流すぎょろ目の頬を掌でそっと撫でて、桃井さんはもう一度呟いた。
「ほしいよ」
まるで祈るような声音に、真樹夫が困ったように肩を揺らす。
「あんたは、阿呆やなぁ」
台詞自体は暴言なのに、その声は酷く柔らかかった。そのまま真樹夫は、何処かはぐらかすような仕草で掌をひらりと動かすと、車へと乗り込んだ。ぎょろ目を置いて、車が去っていく。後部のウィンドウに楓子の後頭部が見えたが、楓子が桃井さんを振り返ることはなかった。
安堵したようにくたりと身体から力を抜くぎょろ目の頭を撫でて、桃井さんがそっと囁く。
「ただ、やさしくしたかっただけだよ」
あぁ、なんて馬鹿な人だ。
作品名:腐った桃は、犬も喰わない 作家名:耳子