腐った桃は、犬も喰わない
桃井さんとヤクザ 9
事務所へと戻った途端、桃井さんはトランクの中にありったけの物を突っ込み始めた。
「白川くんにデコちゃん、荷物まとめてすぐに此処出るよ」
「ちょっと待って下さい。まず説明をして貰わないと、何が何だか」
「カチコミにぶち当たりたくないでしょ。後五分もしたら一発目が来るよ」
そう言われた瞬間、窓ガラスが盛大な音を立てて割れた。楓子が短い悲鳴をあげて、床へと蹲る。あ、と声をあげる間もなく、桃井さんが僕の身体を床へと引き摺り倒した。
「ごめーん、五分どころか十秒もなかったね」
「え、え、な、何ですか、な、なにが」
残った窓ガラスが次々と割れていく。それと同時に壁にビスビスと丸い穴があいていくのが見えた。皮膚が総毛立つ。事務所が銃撃されている。唇をパクパクと開閉させる僕を見て、桃井さんがニッと笑みを浮かべる。
「だいじょぶ、だいじょぶ、まだ威嚇みたいなもんだから」
「い、いかく、威嚇って」
「やっぱりバレちゃったかぁ。そりゃ対抗勢力のところに正面切っていったら流石にデコちゃんのお兄ちゃんも気付くよねぇ。それにしても、相当頭にきてるみたいだなー」
独りごちるように呟いて、桃井さんはソファの背へと凭れ掛かった。その傍らに犬鍋太郎が寄り添うように座る。そうして、長閑な手付きで犬鍋太郎の背を撫でながら呟く。
「仕方ない、ケンちゃんに助けを求めよう」
その言葉に、身体から力が抜けていく。ケンちゃんというのは、桃井さんがよく神棚に祈っている神様の名前じゃないか。緊迫した状況にも関わらず、溜息を吐き出しそうになる。
「今更神様に祈ってどうするんですか…!」
「俺は無神論者だよ」
そう言って、桃井さんは、床で頭を抱えたままぶるぶると震える楓子をソファの影へと引き摺り込んでから、じりじりと床を這い蹲るようにして神棚へと向かっていった。神棚の傍にあったモップを手に取ると、無造作に神棚を叩き落す。その姿に、僕は唖然とした。神の仏もあったものじゃない。
そうして、落ちた神棚から何かを取り出すと、再びこちらへと戻ってくる。その間にも、銃声は絶えず続いている。そうして、僕の掌に何かを押し込んだ。
「ハイ、白川くん」
明るい声で渡されたものを見て、僕は顔を引き攣らせた。掌の上に置かれていたのは拳銃だ。関節にずっしりと圧し掛かる重みに、再び心臓が撥ねる。ケンちゃんって、拳銃じゃないか。
「な、んのつもりですか」
「撃って」
「撃てるわけないでしょう」
「俺も撃てない。でも、撃たないと殺されちゃう」
「撃ったら、僕は鑑別所に逆戻りです。知ってるでしょ、僕がどうして捕まったのか」
「でも、撃ちたいでしょ?」
畜生、こいつは悪魔だ。無邪気なふりをして、僕を地獄に陥れようとしている。撃ちたい。そうだ、僕は撃ちたい。僕の指先が引き金を引く感触を覚えている。恋焦がれていると言ってもいい。
桃井さんがそっと微笑む。
「白川くんは撃つ人だよ」
どういう意味かは解らなかった。怪訝そうに目を瞬かせると、桃井さんは続けてこう言った。
「白川くんは、悪くないよ。前も、撃ったのは間違いじゃない。だから、今撃つのも、きっと間違いじゃない」
嗚呼、と呻くような声が脳内で零れた。桃井さんは知っている。僕が何をやったのか。誰を撃ったのか。僕が起こした罪を知りながら、彼は更にその罪を上塗りするような事を平然とさせる。だけど、僕は掌の中にある金属を離すことが出来ない。
その時、事務所の扉がガァンと音を立てた。誰かが外から蹴り飛ばしている。ふっと血の気が落ちて、それに反して銃を握り締める掌に力が篭るのを感じた。そうして、扉が破られた瞬間、先ほどよりも至近距離で銃声が響いた。残っていた最後のガラスが割れて、足元に破片が飛び散ってくる。
無意識に腕が動いた。ソファの影から、二人の男の姿を視界に映した。人差し指に重い質量、引き金を引く。男の身体が後方へと大きく揺れて、そのまま床へと転がり落ちる。その肩からは赤黒い血が滲み出していた。もう一人の男が恐怖に目を見開く。男の顔には見覚えがあった。楓子を監禁していたヤク中のぎょろ目男だ。
「走って!」
桃井さんが叫ぶ。途端、腕を掴まれて、身体を引き摺り上げられる。その拍子に、銃が手から零れ落ちた。そうして、窓へと近付いたと思った瞬間、身体が無重力の中へと浮いていた。楓子の甲高い悲鳴が聞こえる。
「落ちるぅー!」
間の抜けた叫び声だが真理をついていた。二階から飛び降りていると気付いた途端、恐怖に内臓がぎゅっと萎縮して、息が出来なくなった。落ちる!
ぎゅっと目を閉じた途端、身体がぼすんと柔らかい感触に包まれた。一階の乾物屋軒先の雨除けテントの上に落ちている。震える暇もなく、桃井さんが再び僕と楓子の腕を引っ張る。テントから地面へと飛び降りて、そのまま商店街の道を一気に駆け出す。
駆け出す際、電柱の影に誰かの姿が垣間見えた気がした。だけど、一瞬で視界から消え去る。
「こ、こんなの、ぬ、沼野にバレたら、さい、最悪だ」
「そっかもねー!」
ガチガチと歯を震わせる僕に対して、桃井さんは駆けながら軽快な返事を返してくる。
「ぼっ、ぼくら二人とも、刑務所行きですよ」
「良いよ、一緒に刑務所入るよ!」
ふふっと笑いながら言う姿は、信憑性の欠片もない。だけど、きっと桃井さんは本気で言ってる。もし僕が刑務所に入るようなことがあれば、桃井さんも一緒に来る。それは想像ではなく、きっと紛れもない事実だった。
商店街の真ん中を、三人と一匹が突き抜ける。駆け抜ける傍から、店先の店員が桃井さんへと声を投げ掛ける。
「モモちゃん、また何かやったのかい!?」
「なーんにもやってないから逃げるの!」
まるで子供の鬼ごっこのような明朗さで桃井さんは答えた。はしゃぎ、笑い声をあげながら走る様子は、先ほどまで銃撃に晒されていた人間とは思えないほど無邪気だ。
「どっ、こ行くんですか」
息切れ混じりに問い掛けると、桃井さんは快活に答えた。
「一番解決が早いとこっ!」
作品名:腐った桃は、犬も喰わない 作家名:耳子