腐った桃は、犬も喰わない
「どっち側の人間とかそんなん関係ないよ。俺は一回結んだ契約はちゃんと守るってだけ。一週間はデコちゃんの身柄は俺のものって決まってんの。そうほいほい逃がすわけにはいかない」
「ふざけんな。楓子はもう御前には返さん」
「駄々こねるガキかよ。我侭言や融通とおるのかよ。あんたのところにいたり、逃げたりしたら余計に昭夫が逆上して、デコちゃんまで殺されるっつーの」
「それでも、楓子は渡せない。どうしても」
威嚇するように小倉が荒い息を吐き出す。その指先が懐へと伸びた瞬間、桃井さんの身体がバネのように撥ねた。カァンとプロレスのリングを鳴らした時のような音が響き渡って、僕の足元に黒い塊が転がってくる。拳銃だ。黒く、重い金属の塊。その深い色艶に、心臓がどくんと脈打つのを感じた。その銃身は、まるで溶接をされたかのように奇妙にへし曲がっている。
そうして、桃井さんの手に銀色のハンマーが握り締められていた。片側がくぎ抜きのように尖っている、ネイルハンマーと呼ばれる木工用のハンマーだ。向けられた銃を、桃井さんがそれで叩き落したのだと知る。それにしても、銃身を叩き潰すなんて。
ネイルハンマーの柄を掌に軽く打ちつけながら、桃井さんが呆れたように呟く。
「ねぇ、こういう無意味なことやめようよ」
「無意味?」
小倉が問い掛ける。
「だって、俺の方が強いもん。嫌いなんだよね。結果もわかりきった暴力って。ただのイジメになっちゃうから」
傲慢な台詞だった。小倉が憎悪に塗れた眼差しで、桃井さんを睨み付ける。その眼差しを受けて、桃井さんの唇が酷く醜い笑みに歪む。そうして、ネイルハンマーの切っ先をゆっくりと上げる。尖った部分を小倉の顎先へと突き付けて、桃井さんは落ち着いた声で言った。
「きっと解り合えることはないよ」
「何?」
「誰一人として、解り合えない」
桃井さんらしくないネガティブな台詞だった。絶望的と言ってもいい。その言葉を発した瞬間、桃井さんの顔の輪郭がくにゃりとぼやけた。存在が薄れて、儚く消えかけているように見えた。
桃井さんの目が僕を見る。この目を、僕は何処かで見たことがある。
人に鋭い切っ先を向けながら、まるで自分自身が追い詰められているような表情を浮かべる男の手を、僕は掴む。もう片手に楓子の腕を掴んで、僕は走り出した。このまま、この場にいたら、桃井さんが消えてなくなってしまうように思えた。
「楓子!」
悲痛な小倉の叫び声に、楓子の足取りがよどむ。
「馬鹿、止まるな!」
叫び、走る。楓子がぐっと唇を噛むのが見えた。目は潤んでいる。
桃井さんが僕の名前を呼ぶ。
「白川くん、何だか怖いよ」
馬鹿野郎馬鹿野郎、怖いなら泣き喚けばいいんだ。他人なんか見捨てて、一人で逃げてしまえばいいんだ。それすら出来ずに、怯えた子供のように囁くしかできないなんて、この人は本当に馬鹿だ。
作品名:腐った桃は、犬も喰わない 作家名:耳子