深く眠りし存在の
第1部
胸から上を掛け布団から出して仰向いてるばぁちゃんの顔に、お白粉を押しつけるようにして塗った後、頬に紅をさしてるかぁちゃんのそばに座って、かぁちゃんの割烹着の袂を握りしめ、そのかぁちゃんの手の動きをじぃっと見つめていた。口紅筆を取り上げると顔をばぁちゃんに近づけ、注意深くゆっくりとばぁちゃんの口の縁をなぞった後、何べんも丁寧に唇の上を塗り重ねていく。
白い着物を着せられて、おでこに白い三角の布を乗せてるばぁちゃんの皺々の顔は細く骨ばっていたが、大根のように白い顔の中でリンゴのほっぺたとトマトのように真っ赤となった唇は艶やかで、その化粧された顔は、まるで生きているかのようにみえた。
ばぁちゃん、と声を掛けたら、目を開けて赤くなった口が動き出すんちゃうやろか、などと考えて、「ばぁちゃん」とこわごわ小さく言ってみた。動いたらどないしよう、という怖さと好奇心が入り混じったような心持ちで。
『死』というものがどういうものかを、おぼろに知っていた。
ミケが死んだ時 ――みんなが、「ミケ、死んだけぇな」と言ってたから―― ばぁちゃんと一緒に、庭に穴を掘って埋めた。
ばぁちゃんは、「往生せぇよ。生まれ変わったらなぁ、また、うちに来ておくれぇや」と言って、鼻をならしていた。
「なんでミケをつちのなかにいれてしまうん」
と言ってばぁちゃんの顔を見ると、涙で濡れていた。
「ミケは死んだけぇ」
「なんでないとるん」
「じきにばぁちゃんにも、お迎えがある、思ぉて」
「おむかえ?」
それからは、ミケを見かけることが無くなった。死んだらそばにはいなくなり、一緒に遊べなくなってしまってさみしいものだ、ということを理解した。
そしてばぁちゃんに、お迎えが来たのである。
ばぁちゃんが寝ている布団の周りにはとぅちゃんとかぁちゃんのほかに、げんこを作って膝に押し当てて座ってるおじちゃんや、ハンカチを目に押し当てお尻を浮かせて覗き込んでるおばちゃんたち。それと、始めて見る人が何人か混じっていた。
近所のおばちゃんたちは台所に集まってばぁちゃんの話をにぎやかにしながら、おにぎりをこさえ、お煮しめを炊いている。おじちゃんたちは外にいて、聞きとれないがボソボソとした会話らしきものをしているのが分かる。
「房枝、こっち座れ」
かぁちゃんは立ち上がると、ばぁちゃんの顔のすぐそばにある座布団に座らせた。
「房枝、ばっちゃんのほっぺたに、口づけせぇや」
びっくりして、向かいに座ってるとぅちゃんの顔を見た。誰もそんなことはしていない。みんなの刺すような視線を感じた。
異様な雰囲気に、うつむいて頭を横に振った。
ばぁちゃんがミケを触った後死んだよってに、ばぁちゃんに触ったら今度は自分が死んで、かぁちゃんと二度と会えなくなってしまう、と思った。
おじちゃんたちは黙って見つめている。おばちゃんたちは押し当てていたハンカチを目から外して、お尻を浮かせたまま動きを止めてしまった。
息をするのも止(や)めたのかすべての音が止み、周りの空気の動きも止(と)まってしまって、その冷たい空気が体を包み込んできた。
「やだ!」
すると、かぁちゃんが頭を上から押さえつけてくる。
「やだ! やだやだーやだ〜〜」
そう言って、するりとかぁちゃんの手から逃れると、神棚の前まで走った。
体をひねってばぁちゃんの方を見やったら、さっきまで座ってた所には赤い着物を着たキツネが舌を出して、ばぁちゃんのほっぺたをひと舐めしていた。