名も無き誘拐事件
<br> 午後7時を過ぎたくらいだろうか。11月の冷たい風の吹く町外れの川にかかった橋にその男は立っていた。あたりはすっかり薄暗くなっていて、淋しい街灯の明かりがその男の足元を照らしていた。
<br>俺の名は『播戸良介』。年齢は40を超えたくらい。草臥れたおじさんという風貌だ。すっかり薄くなった頭頂の周りに申し訳程度の白髪交じりの頭髪。顔の表面に膜の貼ったギトギトの脂。
<br>ヨレヨレのコートの中にからははみ出した下腹。それでも頬は少し痩けているのが自分でも分かる。
<br>
<br>俺は昔ながらの石造りの橋から身を乗り出していた。下に見えるのは緩やかに流れるのは蓬川と言う小さな川。その水面に映る自身の顔。その顔を見つめ、また深い溜息を付いた。
<br>手には紙切れが握り締められている。そこにはインクで「督促状」と書かれていた。その額およそ2000万円。それを見て再び深いため息をつく。
<br>
<br>友人の肩代わりの借金だった。
<br>昔からの友人で、事あるごとに連帯保証人を頼まれた。
<br>コロンビアの山奥の鉱山の権利が高騰するんだ、と言っては借金し、
<br>中国の電子機器のベンチャー企業株は絶対に成長する、と言ってはまた借金し、
<br>そしてこうなったら日本で起業する、と言ってはこれまた借金した。
<br>その都度、親戚や銀行、そしてついには怪しい闇金に手を出し、尽く失敗していた。
<br>そしてその都度、自分が連帯保証人にされてしまった。
<br>怪しいことは重々承知だった。失敗することは火を見るより明らかだった。
<br>それでも、友人がその頭を地面まで垂らすのを見て、毎回のようにしょうがないなと判を押した。
<br>今回はそれが仇になった。額が額なだけに友人はとっととトンズラを決め込んだ。
<br>当然連絡しても音沙汰は無し、彼の家族に行方を聞いても、知らぬ存ぜぬの一点張り。とうとう、彼の借金は法的拘束力を持って私のもとにやってきたのだった。
<br>
<br>勿論、俺に借金を返す当てはない。ついこの間まで勤めていた運送業の会社は贈収賄事件が取り沙汰され、めでたく倒産。
<br>20年以上働いてきた私の手元に残ったのは、雀の涙にもならない手当のみ。それに愛想を尽かしたのか長年連れ添ってきた女房も三行半を押し付けて安賃貸アパートを出て行った。
<br>職もない、家内もいない、そしてあるのは吐き気のするような借金だけ。
<br>まさに地獄だった。
<br>正直どうでも良くなった。今、ここで俺が川に身投げをしても誰も悲しむものなどいないだろう。
<br>そもそも俺がこの川に飛び込んで、それに気づく人間が果たして何人いることか。
<br>誰の目にも触れず、ゆっくりと下流まで運ばれて魚や海鳥の餌になる、そんな人生であろう。
<br>
<br>自分の人生など最初からそうだった。小学校も中学校も高校も、特に述べることもない平々凡々な日常だった。
<br>両親に、どんな悪事にも身を染めない良い子で育ってほしいとつけてもらった『良介』と言う名前も、ただ単に人が良い、貧乏くじを引くしか能がない人間になってしまった。
<br>こんな人生に悔いも未練もない。遺書だって必要ない。死なんか怖くない。あとはこの欄干を乗り越えれば良いだけ・・・
<br>
<br>右手を石造りの欄干に手をかけてぐっと力を入れる、しかし
<br>
<br>「・・・だめだ、できない」
<br>
<br>いざ乗り越えて身を投げ出そうと思えば、身がすくむ。膝が震える。息が荒くなる。
<br>今の今までこの世に未練はない、死なんか怖くないと言っていたくせにこのざまだ。あぁ、俺はなんて臆病者だ。
<br>そもままヘナヘナと座り込んでしまう。
<br>生きる希望も目的もない、かと言って死んでしまうのはとても怖い。
<br>
<br>横でコツリと地面を叩く音。
<br>顔を上げる。そこには知った顔。
<br>黒いカシミヤのコートで肩から膝まで覆い隠した、正に黒衣の男。膝から下も光の反射をなるべく抑えた黒地のスーツ。シワ一つシミ一つない。
<br>しかし顔はというと特に黒い布で覆おうという意識はないようだ。瓢箪のようなひょろ長の顔に、中世ヨーロッパを思わせる独特な髭、そしてその双眸はこの世に存在するものの凡てを下卑し、そして同時に憐れむような色をしていた。
<br>彼はこちらがその存在に気づいていることに、とっくに気づいているだろう。しかしわざと言葉を溜める。
<br>明らかに俺に用があるのに、でもそう急かすなと言わんばかりに内ポケットから葉巻を出しまずは一服と美味しそうに吹かし始めた。
<br>
<br>「ごきげんよう、播戸さん」
<br>
<br>こちらは何も応えない。何を言われるか想像は付いた。
<br>
<br>「この橋から身投げですか。お止めなさい。あなたには相応しくない」
<br>
<br>「俺の勝手だろ。それに身投げしようにもできないんだよ、怖くて」
<br>
<br>「ふん、言ったでしょう。『相応しくない』と。あなたは自殺するのには相応しくない。あなたはここでその生涯に幕を下ろすのは実に相応しくない」
<br>
<br>「・・・何の用だ」
<br>
<br>「あなたはあなたの意思で死のうとしている。あなたはそれで良いかもしれない。あなたはあなたの意思のみに支配されその意思以外になんの干渉も受けず判断するそして行動する。それはそれで良い。
<br>でもねあなた自身が生きる上で殺してきた何千何万と言う生命はどうなるのです。その正看は実に浮かばれない」
<br>
<br>こいつはいつもこんな喋り方しかできないのか。内心毒づく。
<br>
<br>「何の話だ。俺は自慢じゃないが根っからの小心者で臆病者でね。蠅一匹殺したことがないんだ。何千何万の生命を俺が殺してきたなんて・・・」
<br>
<br>「おやおや可笑しなことを言う。
<br>あなたは肉を食べるでしょう。魚も食べる。お米だって食べる。それらはもともと小さな生命だったはず。あなたが自身の生命活動を維持するために、他の生命を奪って行ってるんですよ、あなたの意思とは無関係に。そう考えたことはありませんか。
<br>牛だって、豚だって、鶏だって、マグロだって、アジだって、サンマだって。彼らは本当はもっと生きていたかったはずです。でも彼らはそれが許されなかった。彼らはやはりその自身の意思とは無関係に、その生命を潰された。
<br>そしてその命を引き継いだとも言えるあなたは、自分の生命を自ら投げうとうとした。本当はもっと生きていけるはずの他の生物を省みることなく・・・、おっと話が逸れましたね。私の悪い癖だ。私の用事は播戸さん、あなたに伝えるべき事があったんです」
<br>
<br>「伝えるべき事ね・・・」
<br>
<br>大体見当はついた。
<br>
<br>「借金返済の催促にやってまいりました。総額2950万円となります」
<br>
<br>そう。こいつはまごう事なき、借金取りだった。
<br>しかしその金額を聞いて俺は驚いた。
<br>
<br>俺の名は『播戸良介』。年齢は40を超えたくらい。草臥れたおじさんという風貌だ。すっかり薄くなった頭頂の周りに申し訳程度の白髪交じりの頭髪。顔の表面に膜の貼ったギトギトの脂。
<br>ヨレヨレのコートの中にからははみ出した下腹。それでも頬は少し痩けているのが自分でも分かる。
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<br>俺は昔ながらの石造りの橋から身を乗り出していた。下に見えるのは緩やかに流れるのは蓬川と言う小さな川。その水面に映る自身の顔。その顔を見つめ、また深い溜息を付いた。
<br>手には紙切れが握り締められている。そこにはインクで「督促状」と書かれていた。その額およそ2000万円。それを見て再び深いため息をつく。
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<br>友人の肩代わりの借金だった。
<br>昔からの友人で、事あるごとに連帯保証人を頼まれた。
<br>コロンビアの山奥の鉱山の権利が高騰するんだ、と言っては借金し、
<br>中国の電子機器のベンチャー企業株は絶対に成長する、と言ってはまた借金し、
<br>そしてこうなったら日本で起業する、と言ってはこれまた借金した。
<br>その都度、親戚や銀行、そしてついには怪しい闇金に手を出し、尽く失敗していた。
<br>そしてその都度、自分が連帯保証人にされてしまった。
<br>怪しいことは重々承知だった。失敗することは火を見るより明らかだった。
<br>それでも、友人がその頭を地面まで垂らすのを見て、毎回のようにしょうがないなと判を押した。
<br>今回はそれが仇になった。額が額なだけに友人はとっととトンズラを決め込んだ。
<br>当然連絡しても音沙汰は無し、彼の家族に行方を聞いても、知らぬ存ぜぬの一点張り。とうとう、彼の借金は法的拘束力を持って私のもとにやってきたのだった。
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<br>勿論、俺に借金を返す当てはない。ついこの間まで勤めていた運送業の会社は贈収賄事件が取り沙汰され、めでたく倒産。
<br>20年以上働いてきた私の手元に残ったのは、雀の涙にもならない手当のみ。それに愛想を尽かしたのか長年連れ添ってきた女房も三行半を押し付けて安賃貸アパートを出て行った。
<br>職もない、家内もいない、そしてあるのは吐き気のするような借金だけ。
<br>まさに地獄だった。
<br>正直どうでも良くなった。今、ここで俺が川に身投げをしても誰も悲しむものなどいないだろう。
<br>そもそも俺がこの川に飛び込んで、それに気づく人間が果たして何人いることか。
<br>誰の目にも触れず、ゆっくりと下流まで運ばれて魚や海鳥の餌になる、そんな人生であろう。
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<br>自分の人生など最初からそうだった。小学校も中学校も高校も、特に述べることもない平々凡々な日常だった。
<br>両親に、どんな悪事にも身を染めない良い子で育ってほしいとつけてもらった『良介』と言う名前も、ただ単に人が良い、貧乏くじを引くしか能がない人間になってしまった。
<br>こんな人生に悔いも未練もない。遺書だって必要ない。死なんか怖くない。あとはこの欄干を乗り越えれば良いだけ・・・
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<br>右手を石造りの欄干に手をかけてぐっと力を入れる、しかし
<br>
<br>「・・・だめだ、できない」
<br>
<br>いざ乗り越えて身を投げ出そうと思えば、身がすくむ。膝が震える。息が荒くなる。
<br>今の今までこの世に未練はない、死なんか怖くないと言っていたくせにこのざまだ。あぁ、俺はなんて臆病者だ。
<br>そもままヘナヘナと座り込んでしまう。
<br>生きる希望も目的もない、かと言って死んでしまうのはとても怖い。
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<br>横でコツリと地面を叩く音。
<br>顔を上げる。そこには知った顔。
<br>黒いカシミヤのコートで肩から膝まで覆い隠した、正に黒衣の男。膝から下も光の反射をなるべく抑えた黒地のスーツ。シワ一つシミ一つない。
<br>しかし顔はというと特に黒い布で覆おうという意識はないようだ。瓢箪のようなひょろ長の顔に、中世ヨーロッパを思わせる独特な髭、そしてその双眸はこの世に存在するものの凡てを下卑し、そして同時に憐れむような色をしていた。
<br>彼はこちらがその存在に気づいていることに、とっくに気づいているだろう。しかしわざと言葉を溜める。
<br>明らかに俺に用があるのに、でもそう急かすなと言わんばかりに内ポケットから葉巻を出しまずは一服と美味しそうに吹かし始めた。
<br>
<br>「ごきげんよう、播戸さん」
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<br>こちらは何も応えない。何を言われるか想像は付いた。
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<br>「この橋から身投げですか。お止めなさい。あなたには相応しくない」
<br>
<br>「俺の勝手だろ。それに身投げしようにもできないんだよ、怖くて」
<br>
<br>「ふん、言ったでしょう。『相応しくない』と。あなたは自殺するのには相応しくない。あなたはここでその生涯に幕を下ろすのは実に相応しくない」
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<br>「・・・何の用だ」
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<br>「あなたはあなたの意思で死のうとしている。あなたはそれで良いかもしれない。あなたはあなたの意思のみに支配されその意思以外になんの干渉も受けず判断するそして行動する。それはそれで良い。
<br>でもねあなた自身が生きる上で殺してきた何千何万と言う生命はどうなるのです。その正看は実に浮かばれない」
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<br>こいつはいつもこんな喋り方しかできないのか。内心毒づく。
<br>
<br>「何の話だ。俺は自慢じゃないが根っからの小心者で臆病者でね。蠅一匹殺したことがないんだ。何千何万の生命を俺が殺してきたなんて・・・」
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<br>「おやおや可笑しなことを言う。
<br>あなたは肉を食べるでしょう。魚も食べる。お米だって食べる。それらはもともと小さな生命だったはず。あなたが自身の生命活動を維持するために、他の生命を奪って行ってるんですよ、あなたの意思とは無関係に。そう考えたことはありませんか。
<br>牛だって、豚だって、鶏だって、マグロだって、アジだって、サンマだって。彼らは本当はもっと生きていたかったはずです。でも彼らはそれが許されなかった。彼らはやはりその自身の意思とは無関係に、その生命を潰された。
<br>そしてその命を引き継いだとも言えるあなたは、自分の生命を自ら投げうとうとした。本当はもっと生きていけるはずの他の生物を省みることなく・・・、おっと話が逸れましたね。私の悪い癖だ。私の用事は播戸さん、あなたに伝えるべき事があったんです」
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<br>「伝えるべき事ね・・・」
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<br>大体見当はついた。
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<br>「借金返済の催促にやってまいりました。総額2950万円となります」
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<br>そう。こいつはまごう事なき、借金取りだった。
<br>しかしその金額を聞いて俺は驚いた。
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