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復讐

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 スタッフルームのドアを開け、中に入ると、落合憲章は息をついた。テーブルに向かってカルテに文字を書きこんでいた看護師の広田香子が顔を上げる。
「どちらに行かれてたんですか?」
「ちょっとトイレにね。なにかあった?」
「べつになにも。いつもどおりですよ」
 香子は眉ひとつ動かさずにいって、再びカルテに視線をもどした。
 もうひとりの看護師は仮眠室で休憩を取っているらしく、狭いスタッフルームにはふたりだけだった。落合は無意識に首の裏に手を回していた。軽く捻ると、関節が嫌な音を立てた。
「お疲れですか?」
「まあね」
「顔色が悪いですよ」
「産婦人科医がどれだけこきつかわれているか、きみもよく知ってるだろ」
 香子は曖昧に迎合しただけで、すぐに口を噤んだ。勤続10年以上の彼女は、つねに冷静で仕事もできるが、愛想に欠け、もう30を越えるというのに独身だった。恋人のひとりもいるのかもしれないが、自分から話すことはなく、後輩の看護士に尋ねられても、苦笑いで避けていた。筋のとおった顔だちで、美人といえなくもなかったが、どことなく冷ややかな印象が、男を遠ざけるのだろう。
 手ずからコーヒーを淹れて啜った。疲労は全身に蓄積されていたが、眠気はなかった。当直の医師は落合だけで、仮眠を取ったとしても、すぐに起こされてしまうだろう。
「細野先生のお子さん」
「え?」
 突然、香子が口を開いたので、落合はあやうくカップを床に落としてしまいそうになった。
「可愛かったですね」
「ああ……そうだね」
「どっちかっていうと、麻耶に似てるかも」
「麻耶?」
 考えこんだが、すぐに思い出し、頷く。旧姓は岸本。細野の妻だった。
「そういえば、仲がいいんだったね」
「ええ。高校の同級生で。わたしが細野先生に紹介したんです」
 よけいなことをといいたかったが、もちろん、彼女に悪意があったわけではあるまい。
 結婚披露宴での新妻のウェディングドレス姿を思い出した。上気した頬は、妊娠のためわずかにふっくらしていて、年齢のわりにあどけない面差しをさらに愛らしいものにしていた。
 子どもができたから別れてほしいと細野にいわれたときは、足が震えるほどのショックを受けた。社会的立場や周囲の目を気にして、そういう道を選ぶことがあるだろうとは思っていたが、まさか子どもまでつくっていたとは。それでも関係を失いたくなかったが、細野には愛人としての立場さえ、落合に残すつもりはなかった。
 結果的に、落合は細野に棄てられた。儀礼的な招待状を受け取り、披露宴にも列席した。細野は驚きながらも、落合の祝福の言葉を聞いて感激したようだった。落合が諦めたのだと思ったのだろう。妊娠した妻をこの病院に入れることにも、たいして反対はしなかった。
 細野は系列の病院に勤める外科医であり、その妻が出産するのに、べつの産婦人科を選ぶわけにはいかない。しかし、直接聞いたわけではないが、どうやら落合が担当することだけは拒んだらしい。落合に対して気を遣ったわけではなく、単純に、信頼できなかったのだろう。気持ちはわかるが、心外だった。いくら未練が残っていたとしても、仕事に持ちこんだりはしない。産婦人科の医療ミスはマスコミに大きく叩かれるし、そうでなくても、故意に手を抜くことなどできない。親を憎んでいるからといって、赤ん坊を殺すほど、異常な神経の持ち主ではないのだ。
 しかし、生まれてきた赤ん坊を見た瞬間、落合の胸はどうしようもなく騒いだ。細野の血を継ぐ子ども。従順でおとなしい妻と3人で、ありきたりだが幸福な家庭を築いていくのだろう。そう考えると、白衣の下の心臓が軋んだ。
 思わず目を逸らして、落合はあることに気づいた。細野の子が眠るベッドのすぐ横で、2日前に生まれた赤ん坊が手足をばたつかせていた。小さな顔のつくりが細野の子によく似ていて、体重もほとんど変わらない。
 落合が決心するのに、時間はかからなかった。復讐を遂げるのに、なにも殺人を犯す必要はない。
 そして迎えた当直の今夜、落合は計画を実行に移した。ふたりの子どもを取り替えるのに費やした時間はほんの数分。暗い新生児室にはだれもいず、見咎められることはなかった。顔をしわくちゃにして懸命に泣く子どもを抱き上げるときには、さすがに胸が痛んだが、終わってみれば、どうということもない。むしろ、爽快な気分だった。
 他人の子を実の子と信じて愛し、慈しみ、育てる細野を想像すると、口元が緩む。彼にそのことを伝える気はない。真実は落合だけが知っていればいいのだ。勝者の余裕を讃えた眼差しで子どもの成長を眺める。残酷な喜びが落合の心に広がっていった。
 香子が影のように音もなく立ち上がる。
「見回り?」
「ええ」
「気をつけてね」
 ふだんはかけられることのないやさしい言葉に、香子が訝しげな表情をつくる。落合は構わずに手を振ってみせた。

 スタッフルームを出て、香子は薄暗い廊下を歩いていった。
 今日の落合はどこか妙だった。ふだんは決して饒舌なタイプではないのに、突然、香子を気遣うようなことをいったり、そうかと思えば、ひとりでにやにや笑っていたりする。気味が悪かったし、医師とはいえ、男とふたり、部屋でじっとしているのは気詰まりだった。
 シューズの底で一歩一歩床を踏みしめながら、香子は麻耶の泣き出しそうな笑顔を思い出していた。
 香子は学生時代から麻耶をたいせつに扱ってきた。当時付きあっていた彼の浮気を知って泣く麻耶を一晩中慰めたこともある。ほかの友達には、まるで麻耶の母親だとからかわれたが、そんなつもりはなかった。麻耶に対する香子の気持ちは、母親のそれとは断じてちがうし、もちろん、友人でもない。
 本当の気持ちを麻耶に伝えるつもりはなかった。お嬢様育ちの麻耶に理解できるとは思えなかったし、香子としては、麻耶のそばにいられるだけで満足だった。
 しかし、細野との結婚、そして妊娠の事実を聞かされたとき、香子は崖から突き落とされたような衝撃を覚えた。香子に会いにときおり病院にきていた麻耶が、系列病院の細野と知りあい、交際するようになっていたということを、香子はまったく知らなかったのだ。平然と香子に嘘をついてみせた麻耶が、突然他人のように思えた。幸福そのものといった表情で報告する麻耶の屈託のなさを、心底憎らしく思った。
 可愛さ余って憎さ百倍というが、まさに香子の心はそれまで抱いていたものとは正反対の感情に沸き立ち、烈しく燃え上がっていた。面と向かって質したわけでもないのに、麻耶が香子の気持ちを知っていて弄んでいたのではないかという疑念が生まれ、憶測は次第に現実味を帯びて膨張していった。年中男日照りと噂されている香子を、旦那の細野と家で笑いあっているのにちがいないと思うと、怒りで顔が熱くなる。香子を利用した麻耶も、醜悪な精子でいとも簡単に麻耶を奪った細野も、ゆるせなかった。
 香子は素早く周囲に目を配ってから、新生児室のドアを開けた。ベッドの間をすり抜け、ペンライトの小さな光で目的の名前を確認する。
 隣で寝ている子どもの顔は、やはり細野家の長男に似ていた。成長すれば変化が出てくるだろうが、生まれて1日や2日では、そのちがいはわかるまい。
作品名:復讐 作家名:新尾林月